思想の基幹(初出 07.8.9)


 思想の基幹は人間だ。

 当たり前だが、案外当たり前じゃない。

 人間を装い、組織や因習を掲げたものは多い。

 長老掲げる部族国家の思想。明治以来の日本の国家主義、保守思想は一亜種だ。

 キリスト教がベースの思想も、こいつの殻を尻にくっ付けてるはずだ。アメリカの保守なんかも、そうだろう。

 ルソーの自然人。こいつは組織、因習、長老達にたぶらかされないヒトを掲げたものだが、ちと抽象的過ぎる。思想的自由人の原型でも、日々暮らすナマ身のヒトの原型とは言えない。

 

 現実の生きた人間を掲げたものに、マルクスの働くヒト、生み出すヒトの「労働者」がある。

 その頃マルクスは若すぎた。資本の論理に対抗するのに急で、当初の直観・直覚からずれた経済的人格に仕立て上げちゃった気がする。暮らしと家庭を下請けに、威張り腐って革命運動。資本家共のネガに過ぎねえ腐れ労組や左翼に、ヘンな根拠を与えた。

 

 吉本隆明が「大衆の原像」を中核に置いたのは、真っ当だった。彼の感性と怒りの根拠はここにあった。口先民主のプチブルや、暮らしを見下す左翼を徹底的に叩いたのは、この直観、直覚に根ざしていた。

 吉本もまた若過ぎた。「大衆の原像」は、直観、予感はされても像は結ばなかった。彼自身、インテリの殻を尻尾に付けた、いまだ途上の生活者だったからだろう。

 それはそれ。観念、概念、アタマと違う、日々生きるヒトを提示したところが、彼の思想のまともさだった。

 

 ある時期、彼は恨まれた。組織人予備軍の学生にいちゃもんつける、ドロップアウト・非組織製造の思想として。

 俺は貧乏くじ引かされた。息子はひでえ目に遭わされた。あんたの本さえ読まなけりゃ…。子供の未来を嘱望した、親父にまで恨まれたとか。

 

 おめえは自分に嘘ついてるんじゃねえか…。そうささやきかける思想。

 思想は元々そういうものだ。観念掲げてハイお終い。自分のことは話は別のプチブル民主や講壇哲学の類が、思想な訳はない。

 こいつはある時、AUMになる。贖罪の心理を突き、「だから俺の言うことを聞け」は、詐欺の手法の宗教の常套手段。

 胸に手を当て感じるのは、お前自身だぜと最後まで言い通す実践思想は、案外稀だ。ドグマの要素が吉本に、皆無だったかは知らねえが。

 

 吉本自身もその後は、日本は高度資本主義に突入したとか言って、生まれ育った下町の、庶民・民衆の感性の要素を切り離そうとしたそうな。その頃は俺ももう、おっさんの本は読まなかったから、実情は知らない。

 言えるのは、高度化もへったくれもねえことだ。ヒトの暮らしの感性を掲げた“前期吉本”は、変らぬ人の実相だ。当人が今何を言っても、それはどうでもいいことだ。

 人を育てるには、ほんまもんを作るには、断片化を拒むトータルな感性が必要だ。現象がどんなに「高度化」し、「複雑化」しようが。