引用

 以下はついさっき、他人のブログの論文へのコメントで書いたもの。

 コメントってのは月みたいなもので、論文本体の光の反射みたいなもんだから、自分が書いたからって、その場を離れて引用するのはヘンなもんだ。というか再録御容赦。

 俺としては数日前、「予告」とか言ってさっぱり書けねえ本文の、本旨に通じるものはあると感じた次第。それの代弁的に掲載する次第。

 コメント受け付けねえおいらが、他人のとこでコメント書くってのもどんなもんかと思うが、それぞれのスタンスってことで、こいつも御容赦。


※以下引用

 知の高みに自己を重ねることが意識無意識に既得権と結び、社会の変革にも自分の変革にもまるでつながらかったことは数十年、自身の諸々の体験を含め痛切に感じるところです。
 「戦後数十年、我々は言いたいことも言わずがまんしてきた」は、橋本龍太郎か小沢かが十数年前に言った言葉ですが、それは嫌でも孤独の海(傍から見ての影や暗さ)に乗り出すことになる生み出すことや決断(真の意味の先駆性に通じるもの)を放棄し、もたらされた民主の「知性」の小船に籠り、自分の実体や実生活と無縁な安易な連帯や正義を唱え、安全地帯の批判ばかりを声高に叫んだマスメディアを含む諸々の者達への怨念だったのだろうと思っています。
 私は例えば小沢が、この種の怒りや怨念の彼方に何を見ているのかが大変気になるところです。ネットにも充満する右翼的言辞は、戦後に確かに存在した空疎や嘘臭さ、既得権に実は護られた者達の奇麗事への反動だろうと思いますが、リアクションの範囲を出ない限りは、戦後民主の「進歩」の裏返しの文字通りの「反動」にしか行き着かないだろうと感じています。
 私は小沢が怒りや怨念とは別に、「言いたいことを言えなかった」戦後の保守の自分達の実体を、なぜ言えなかったかを含め、どこまで掘り下げているかが実に知りたいところです。小沢や小沢的なものが真に民衆を基盤とした政治への糸口をつかむのか、革命党員もぬかずいたフリーメーソンの神殿の彼方にまたぞろヘンなものを見出し、民衆蔑視の方向に向かってしまうのかかは、その辺りにあるように感じています。