表現の解放

 ネットでいいのは人間認識、結構ちゃんとしてるというか、的確な書き込みがあることだ。ちゃんと探せば。

 思えば当たりめえなのだ。過去にゃ「表さなかった人々、表せなかった人々」が表すようになったのだ。本来それをベースに表すべき生活人達が、思いを表すようになったのだ。誰もかれもじゃ、まだねえにしても。

 振り返りゃ活字にしても音声・映像にしても、媒体それ自体、すでに特殊な世界だった。マス、ミニ含めて商業媒体に顔出す。言葉操る。活字操る。映像操る。そこにはすでに選別が働いてた。フィルターがかかってた。手がける者達に。

 昔、『もの言わぬ農民』って新書があった。普段は活字にならねえ、なっても職業的なもの書きのフィルターを通してしか出てこねえ農民の声を、できるだけ生で活字にしようとした本だった。十代の俺は、こういう筆者の姿勢・姿に惹かれた。俺だけじゃなかったろう。そういうもんに惹かれた者達は。当時はまだそこそこいたはずだ。

 中学生の頃だったか、国営放送に『現代の映像』という三十分のドキュメンタリー番組があった。これも俺は好きだった。今は糞みそに言う国営だが、当時の作り手の個々の心情にゃ、俺と同じものがあったんだろうと今も思う。

 言葉(映像)ってのは、言葉(映像)の商売ってのは、普段は表せねえ人々の思いを少しでも表すこと、表そうとすることじゃねえのか。青二才の俺は思った。今もはっきりと思い出す。斜に構えたインテリから鼻で笑われたことも含めて。


 もうそんな必要はねえのだ。ツールがあるのだ。その気になりゃ、誰にも。

 表現は技術だ。映像も言葉も。大半が商業的な要請に基づく技法の上に成り立つところの。

 そのフィルターを通過する「力」を持つことと、肝心かなめの表現の質や量、意欲等々はまるで別物ってのは、俺自身嫌ってほど味わってきた。自分自身の不甲斐なさを含めて。

 コネツテ、科挙学歴、ケチな思い込みの巣と化した出版、映像、組織マスコミ共に、今更歯噛みする必要はねえのだ。大半が共同幻想・共同主観の観念に過ぎねえ、あらかたが商業的な約束事に過ぎねえ、表現技法のケツ追っかける必要はもうねえのだ。

 自由にもの言おうぜ。自分の言葉で。自分の表現で。それぞれの技法で。気持ちが、思いが伝わりゃそれでいいのだ。