がらんどう・うそっぱちの神と敗戦

 敗戦の日なんてぇと馬鹿の一つ憶えみたいに、「玉音放送」に涙する奴や靖国で泣いたりわめいたりの写真ばかり出るけど、写真取材なんてもんは記事と一緒。プロパガンダじゃなくても、一種の思い込みの美学で成り立つのは、ちょっと経験すりゃあほでも分かる。対象の選択、現場の選択、被写体、アングル、シャッターチャンス。「いい写真撮って来ました」なんて、この辺のお手盛り感覚が大半。それ六十何年も使い回してりゃ、そこに現実があったごとく思い込むさ。たいがい。

 軍国少年吉本隆明は敗戦時、大人たちがむしろ喜々として引き揚げて来るのに衝撃を感じたという意味のこと言ってる。俺の叔父なんかも、しこたま担いで帰るのに忙しかったとさ。


 兵隊三船敏郎は、「ざまあみやがれ」と言って特攻基地おん出て、戦後の海に飛び出した。俺が田舎で直接聞いた、または聞き書きしたこの年代の者達はこのタイプ。百姓のせがれ然り、土建屋のせがれ然り。国家に後ろ髪引かれる奴など、いなかった。

 国家イベント=侵略戦争火付け役の関東軍は、さっさととんずら。棄民の憂き目、わが子も捨てて命からがらの元開拓団は、田舎にゃわんさと。手記かき集めたこともあった。

 いいくらかげんな俺のお袋だって、見慣れぬマークの艦載機、こんな田舎に飛び交うの見上げ、こりゃもう駄目と。

 勤労動員の中学生も、強制労働の中国軍捕虜からこっそりじかに話を聞き、川流れる彼らの死体見、真っ当な教師の顔色や話、これらに接してヘンだと実感した者達は多々。自由に書いた彼らの回顧録に国家賛美、戦争賛美の馬鹿は皆無。嘘と思うなら探してみな。全国どこの学校にも、この手の手記はあるはずだ。ほこりに埋もれて。

 こういう情景、こういう者達の写真撮るなんて、思いもつかなかったべ。当時の取材のプロとやらは。禁止以前に。

 いかさまの神拝まなきゃ困るのは、父っちゃん坊やだけさ。セイシン継承=財産継承、親の恩給目当ての。