坂口安吾と惰眠

 俺は作家と言われる人種じゃ、坂口安吾が好きだった。

 単純な理由だ。生の現実からものを拾う。拾おうとする。体当たりの経験で。虚業としちゃ、正解なのかどうか知らねえが。

 安吾は稀代のジャーナリストだったと昔どっかに書いてあったが、その通りと思う。

 この国じゃ作家は言うに及ばず、ジャーナリストと称するやからも二次加工されたものの中からしか、出来合いのものの中からしか「事実」を拾って来ねえ。

 生の目で、経験体感感性で拾わず、お墨付きの出た知識だけ、そのフィルター通した「事実」だけ拾って来る。目ん玉が、生き方が、それに照応した精神の構造がその程度なのだ。

 科挙学歴、宮仕え、サラリーマン根性。こいつがもっともらしい面下げて百余年(儒学朱子学・サラリーマン武士の時代を入れりゃ三百五十年余)、この国にのさばって来た。

 娑婆を生身で渡ってみると、安吾が特殊な人間じゃなかったってのはよく分かる。当たり前なのだ。裸一貫で身ぃ興した町工場の親父、意欲持って生きる百姓、真っ当な研究者(たいがい技術屋、自然科学)…。この手の者達にゃむしろ普遍的にいたのを、三十年のはぐれ者暮らし(サラリーマン社会を基準にしてのね)の中で実感した。ジャーナリストのたぐいにゃ絶無だったってのは、断言してやる。

 安吾が晩年、天皇制とそのルーツに体当たりしたってのもよく分かる。「茫漠としたつかみ所の無いものに絡み付いちゃったよ」と言ってたらしいけど。

 安吾一人じゃ無理に決まってるさ。歴史の実証なんて。歴代の人文、社会科学者、事実掘り起こすはずのジャーナリストなるやからがず〜っとさぼって来たことをね。

 さわらぬ神にゃ崇り無し。それで飯が食える。お墨付きもらえる。この国じゃ。

 俺は政治なんてのは大嫌いだ。そんなとこで世の中変わるなんてのが幻想だってのは、真っ当に汗流す者達と関わって、その一人に辛うじてなってみて骨身に沁みて分かる。

 だがはっきり言えること。構造に精神に、そいつに擦り寄る生き方に嘘(思考停止)が蔓延してる限り、真っ当な汗は絶対に報われねえ。銭金以前で。家庭家族含む、娑婆の暮らしの基本的なところで。魂、精神、人と人の連帯において。イノベーションなんざ、私的にも公的にも永遠にサルのたわ言。

 だから俺は言う。底無し井戸のサラリーマン社会で。馬鹿馬鹿しいの百も承知で。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。