胆力と自分
筋力、持久力の体力。そして胆力。
自分の維持。これに大事なのは、この二つだ。
とりわけ胆力。こいつは体力がねえと伴いにくい代物だが、体力がどんなにあっても備わるものでもない。
胆力。それは今ある自分の世界に腹据える、その力だ。
宇宙のことはわが体内のこと。そう佐久間象山は言ったとか。
昔、何んかの本書きで関わった象山。その時感じた、実体ははったり、上昇志向の封建サラリーマン。こいつにほんとにそれがあったとは到底思えねえが、言葉はその通り。視線を周りに照射して揺るがねえ自分(無)の世界。
いつも自分の側にいる。それは独善じゃねえ。学びにとって大事なスタンス。ああ、そういう世界があるんだ。俺が見えなかった…。素直にそう見える。思える。そして自分の内に取り込む。素直に。
なぜ象山は封建サラリーマン? ある時フイと別の側に回る。置き去りにする。仲間を。この手の行為を垣間見たので。
この手の男は自分も置き去りにする。そして笑う。自分を。仰ぎ見る価値体系に「自分」を移植して。
本当の学びは永遠に不可能。明治が駄目だったのはこれ。科挙学歴のサラリーマン社会、奇麗事の市民社会が駄目なのはこれ。
胆力。これは自前の感性、自前の経験。これを土台に形成。じっくりと。じんわりと。
共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。