トータルなものと人の共和
トータルなもの。それは人の心(存在そのもの)だ。
人を自分をトータルに感じる。
これは頭で人(自分)と関わらないに尽きると、俺は経験的に思っている。
何のことはない。子供の頃に持っていた感性に戻るということだった。
子供の頃と違うのは、要点(商売上の損益等々)は脱落し得ないということ。
こいつが脱落したんじゃ、仕事は成り立たない。限りある自分の一日は成り立たない。自分のために、家族のために日々の糧を得なければならない者に、無限の神の愛の真似は出来ない。
それでもトータルに相手を感じる。トータルな自分の心で。
それにゃ頭で思わない。ばかになる。こいつは不可欠な気持ちの持ち様だと俺は思っている。
ばかになったって体が教えてくれる。出来る範囲、関われる範囲を。
俺は経験的に思う。体の教えや警告に従うことは偽善じゃ無い。それはいわば、生物としてのヒトの基本の営み。のんびり田舎の爺さん婆さんなんかは、たいがい知っている。体で。自分の及ぶ範囲を。
頭で考える。それは部分の突出ということ。突出すれば極論に走る。頭でこねる言葉や論理のたぐいはどれも皆、生物のしてのヒトの生き方(実人生)―ここから浮遊した極論や仮設と言っていい。
この極論や仮設が実人生の面を下げて、大手を振って歩き回る。それが今の社会だと俺は思っている。六十余年の経験で。
知識人ほど馬鹿になる。こいつは俺が骨身に沁みる実感。組織人のたぐいは全部これ。なので頭でっかち製造所=大学等々が要る。
「And the people bowed and prayed to the neon god they made.」
(Paul Frederic Simon)
逆説でも何でもなく、俺は思う。本当の知識って奴は、お前は馬鹿と、骨身に沁みて教えてくれる智恵だと。
こいつは洋の東西を問わない。
いったん上昇した知識人は、真っ当ならば再び民衆の中に降りる。吉本隆明はかつて、この種の意味のことを言った。親鸞を例に。
思えばこれは、思想のイロハなのだ。俺に言わせれば、上昇なんかしなくたってこの種の智恵は身に付く。野山の爺婆に会えば分かるさ。腹据えて、偏見自負のたぐいドブに捨てて。
山の爺婆、山の出の町場の爺婆にゃ、ずい分助けられた。あちらの暮らしの許す範囲、及ぶ範囲で。貧乏暮らしのわが家は、ずい分救われた。人の情に。
思想は制度は、人の生身の関わりは、体が知ってる人の智恵の上に成り立つのが一番。それが当たり前なのだ。
これには何よりばかになれ。こねくり回さないで読め。本を読むなら。
自分に言ってるんさ。
共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。