虚構と馴れ合って飯を食う者

※これは少し前、他で書いたものだが、ここに掲載しておくのが相応しい。4年前からのものを読む者が万に一人でもいれば、分かるだろう。心情のみならず理念も。


 数日前、里見繁という関西大学の教授が「震災報道」に関連させて、俺の田舎の地方紙に次のように書いていた。共同通信かどこかの配信だろう。

 ※以下引用

「川で溺れている人をみつけた。あなたはカメラを回し続けるか。それとも救いの手を差し出すか」。あるテレビ局の面接でこう聞かれた、と女子学生が言ってきた。「何と応えた?」と聞くと「助けながら、カメラを回します」。うまいな、と思ったが学生は続けて「でも面接官に『そんな答えはだめだ』と言われました」と肩を落とした。どんな答えが求められていたのだろう。

 30年以上報道の現場にいたが、去年から大学の教壇に立っている。冒頭の質問は報道現場では昔から語り継がれてきた。還暦に近い私は自分ではその答えを持っている。人の命と職業をてんびんにかける、その質問自体が無効だ。仕事が大事ではない、というのではない。その場ではカメラを捨てて手を差し出すことが、仕事だといいたい。……

 「川で溺れている人」は、実は他人ではない。助ける人も、助けられる人も、それを見ている人も、同じ舟の上にいるのだ。

 ※以上

 反論する者はいないであろう修身訓話を延々取り上げたのは、この話には明瞭に、3つの嘘が含まれているからだ。嘘で悪ければ、頭でこねたフィクションが。

 第一は「冒頭の質問(撮るか助けるか)は報道現場では昔から語り継がれてきた」という個所。第二は「その場ではカメラを捨てて手を差し出すことが、仕事だといいたい」という個所。第三は「『川で溺れている人』は、実は他人ではない。助ける人も、助けられる人も、それを見ている人も、同じ舟の上にいるのだ」という個所。

 第一の部分は、1960年の社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺にまつわる、その瞬間を撮影したカメラマンのエピソードだろう。

 当時小5の俺は、田舎の村の社会党員だった親父の影響もあったろう、この事件は強烈に脳裏に焼き付いた。その年の民衆運動への共感と結ぶ、えも言えぬ怒りは俺が報道なる、人と社会の奥底に関わることが建前の職種にいっ時赴いた、一つの動機になったと思っている。

 だが俺には、この種の話が報道現場で語り継がれたという記憶はまるでない(正確に言えば、若い社員達から小馬鹿にされていたお人好しの老齢カメラマンが、1、2度俺に話したことはある)。実際俺自身、その種の話を本気ですると、同僚達にするりと逃げられた経験はある。まして筆者とは後述のごとく、その種の話の場すら持ち得なかった。(里見という教授の紹介欄には、「毎日放送で数多くのドキュメンタリー番組を制作し、芸術祭優秀作品賞や日本民間放送連盟賞最優秀など受賞多数。2010年4月から現職」と紹介されている(自分で書いたんだろう)。俺も31年前まで、同じ放送企業のサラリーマン(ニュースカメラマン)だった。)

 第二の部分は、職業的報道人(雇われサラリーマン)である以前に、一人の人であれという意味だろう。

 彼に、これを言う資格は皆無だと俺は思っている。

 あの放送企業にいた善人の老カメラマンに聞いたことだが、浅沼刺殺の現場写真でピューリッツァー賞を受けた毎日新聞のカメラマンは、同僚から散々嫌がらせを受けて職を辞したという。親父がこの社のサラリーマンだったという里見もまた、ここで披瀝した論理(陰口)をカメラマンに振り向けたことだろう。その社にいたならば。

 ちなみに俺がその時そのカメラマンなら、多分だがやっぱり撮ったろう。諸々の正義の観念(打算)が頭の中で動き出す前に。撮ることが飯より好きなカメラ小僧として、写真機を握っていたならば。学卒の肩書きで入社する若いサラリーマン達に散々小馬鹿にされた、映画社出の老カメラマンのごとく。

 第三の部分「人は皆、同じ舟の上」。この種の人間観が彼の実人生に片鱗でもあったなら、俺がサラリーマンに見切りを付けるのは、一、二年程度遅れたろう。それほど強烈な拒絶感を、この男は俺に与えてくれた。組織的なもの(虚構)に対する嫌悪を。

 彼は俺より1年遅く入社した。「『君らしいな』と言われる仕事をしたい」。この男が入社の弁をそう社報で言っていたのは、なぜか覚えている。ほかの新人達にはすでに、この種の自己主張すらなくなっていたのだろう。

 1、2年ほかの部署を回った彼は、その後報道部に記者として配属された。割と素直に自分を言う、この頃では生きのいい男。そう感じた俺は、初めて彼と取材に出かけた時、少し張り切った。

 「彼となら面白い映像が作れそうだ―」。そう思った俺は、ある事件にまつわるニュースレポートの撮り方を、カメラマンとして提案した。今となっては他愛ないものだが、記者がカメラに向かって喋るだけではない、見る者の想像力を多少なりともかき立てる手法だった。

 それは奏功し、俺が当時は敬意を抱いたあるベテラン記者が、「こういう撮影者が現れるのを待っていた」と言ったと人づてに聞いた時は、素直に嬉しかった。

 だが新入記者は、以後がらりと態度を変えた。取材に関する事前情報をカメラマンの俺に一切出さなくなったのだ。

 これをやられたらカメラマンはお手上げ。画作りも糞も無く、現場でいきなり「あれを撮れ、これを撮れ」と、あごで使われるだけに。事前情報は記者の側。この立場を利した「君らしいな」の処世と組織的人格の自己主張を、この男は二十代半ばにして見事に備えていた。

 「ああ、やっぱりこの程度か…。」

 俺がそう落胆したのは、陰湿なやり口を弄する彼の存在が、その頃見えていた諸々の事柄とダブったからだった。

 放送という業種にはなぜかその頃、地方にも首都圏人が流れ込むようになり、彼もその一人だった。

 格好ばかりで付き合いの間口が狭く、偏差値的な物差しで人を差別する―。この種の首都圏人の気性(実体は上昇志向の田舎者のなれの果てだろう。予科練帰りのある寺の坊主が「俺は新東京人は大嫌いだ」と言ったのは、この種の者達を指すのだろう)に嫌気が差して俺は東京を離れ、あほうも人の潤滑油の大阪に来て、カメラマンという肉体仕事を選んだ。そんな俺には、当時のこの傾向は心に芽生えた仕事への失望を加速させるだけだった。

 差別は大阪人もする。部落差別や朝鮮人差別の元祖みたいな土地柄。もっとあからさまにする。だが彼らは概してあっけらかんとしていて、流す汗や結果への評価や敬意、素直さは持ち合わせる。それが俺が感じた大阪だった。だから元請け、下請け、孫請け、アルバイトごちゃ混ぜのカメラマン部屋(一種のたこ部屋)で、7年間やって来れたと思っている。この種の感性・気性を失くしたら、その種の場所では互いの接点は何一つ無くなるのだ。その大阪が失われるということ。とりわけ親会社的サラリーマン世界では。

 嫌気が差すもう一つの出来事は、70年代半ばだったか、それまでネットワークを組んでいたNET(今のテレビ朝日)に代わって、TBSが相手となったことだった。

 「報道に強い」。頭でっかちの記者達は、関西人も含めてそう無邪気に喜んだが、インテリの虚妄程度は分かる俺は違った。当時はまだリベラルを装っていたこの会社の実体は、尊大・横柄、口先だけの東京人を絵に描いたようなもの。その程度を嗅ぎ分けられないでどうする。

 「こんな奴らの中でやったところで…」。そんな俺の思いを感じた善意の者達の中には、なぜか記者への「昇格」を勧める者もいた。社員達にはそんな俺の感情は、評価の低い職場への不満程度にしか見えなかったのだろう。

 それなりに力を出せるならそれも…。いっ時そんな思いも湧いたことは事実だ。だが「昇格」という発想しか無いケチな自負心の中に首を突っ込み、どうにかなると思うほどお人好しでも無かった。上昇志向の踏み絵を踏んで、エサで吊られて腐り果てるか、インテリというの名の陰湿・虚妄の宦官世界でボロ雑巾になるか…。

 

 二十代の俺の居場所はやはり、親会社、下請け、孫請け、アルバイトがギュウギュウ詰めのカメラマン部屋だった。ボーナスを含めれば、賃金格差は2、3倍はあったろう。

 立場の違う者同士、そこでどうわたり合うか。それは仕事の技量でしかない。

 この俺の幻想は、毎度見事に打ち砕かれた。職人的な打ち込みで自分を何とか鍛え抜く。確かに努力は続けたものの、2倍、3倍の賃金格差を技量で埋め合わせる力など身に付くはずもなく、そればかりか賃金は半分程度の下請け孫請けカメラマン達の後塵を拝するばかりだった。

 当時の俺の夢想、信念、執着は、とにかく技量は磨くこと。立場の違う者同士、そこで渡り合い、力を合わせること。それを基盤に、同水準の賃金にするべく連帯することだった。

 それは一種の職人・職工的、ギルド的組合の夢想だった。それは孫請けの助手達に時折垣間見られる、「どうせ俺たちは低賃金だから…」という投げやりな態度・生き方の克服でもあった。肉体労働者、二級サラリーマンという俺達への視線を跳ね返すことも含めて。

 肝心な部分は避けて通り、同情と観念論で連帯の赤旗を振る。このインテリ記者達の傾向は俺が最も嫌うところだったが、里見という賢い組織的人格者は、その輪にすら入ることは無かった。彼のしたことといえば、邪魔と見える者は遠ざけ、自分を冒す心配のない者だけを集めて内向きの小集団を作る、東京人好みの手法だったのを覚えている。

 俺は二十九で辞職を決め、三十の年に嫁さんや3歳、0歳の子供達と共にフリーター人生を歩み出した。直接のきっかけは仕事の些細なミスだった。今思えばナイーブ過ぎて馬鹿ばかしいが、技量の職工組合を無想したその頃の俺には、到底許せなかったのだろう。初歩のミスを犯しながら2倍、3倍の賃金格差の上に居座る。それこそ里見教授の言う、同じ舟の上にいるべき人として到底許せなかったというのが、当時の俺の思いだ。

 言われたからやりましたの職業人以前に、人にはやるべきことがある。

 このことなら里見君、俺はその後も何度もして来たよ。毎度毎度、飢える自由と引き換えに。例えば孫請けフリーターとして、県の環境アセスメントのごまかしを逃げずに取材し、逃げと脅しの田舎放送企業と衝突して定収の道を無くしたこともあった。

 本の取材・執筆仕事では、それこそ何度も何度もあった。孫請け以前に人として、言われた仕事をはるかに上回って取っ組んで、金にならない、妻子を泣かす、あげくの果てに首になる等々。お陰さまでつかむものはつかんだ。意地でもなんでもない。その意味では昔通り、心の摂理に素直に従ったお陰だ。

 自然科学の発見も社会科学の発見も、立場、立ち回りでも何でもない、素直な人の心に立ち戻ってやらなければ有り得ないのだよ。

 そうそう、つい10年ほど前も頼まれ仕事の学校史を作る中、地域のそれこそ草の根っこから生えあがった自由民権の人々を見つけ、彼らの情熱がその後永らく地域を作ったことを証明しようと必死になった。真の人間らしさとは、利害打算の組織ではない、真っ当、真っ正直な土着の生活の中から出るのだよ。彼らは説教なんかしなくたって、人にとって必要な真理の方角に走り出す。その情熱が敗戦後の人の情熱になり、変革を含めたさまざまなうねりを作り出したのだ。

 これを証明しようとして、ものの見事に首になったさ。式典に間に合わないだけの話でね。文句は言わないさ。俺を首にした編集委員長の坊さんは、彼らにとっては書きすぎ、やりすぎのはみ出し原稿を草稿集にまとめてくれた。人同士の関わりを避けない、娑婆の人情とはそういうものだ。

 ちなみにその後二年間、職安で見つけた失対仕事で食いつなぎながら、子供達は卒業させた。親の力というより子の力。アルバイトと奨学金と授業料減免で、二人はなんとか学校を出たさ。

 こんなことをなぜ俺が言うか分かるかね。職業人である前に人として。こんなことをすれば必ず飢えが付いて回るのが、普通の娑婆だ。人は組織は、目的以外のことには金は払わない。それでもあんたやるかね? やる価値を見出すかね?

 そのことは良く知る里見君だからこそ、作る側じゃない、見る側の夢想のエピソードで修身話を語ったんじゃないのかい。辞めた後の震災報道になんかひっかけないで、あんた自身の体験を書けばいいじゃないか。

 君も六十になれば、「人として」の体験談など、本来なら山ほどあるはずだ。その事例を引っ張り出す方が、よほど説得力があるぜ。持ち合わせがあるならば。

 時間切れ。ここまでにする。最後に、辞めた後もうだつが上がらぬと散々蔑まれた世渡り下手のカメラマンは、ここでこうして生きている。昔と変わらぬ思いを抱えて。(わざわざ追いかけてきてまで蔑んだ、あんたの同類達の心理はよく分かる。腹は立ったが、あんたと比べりゃマシさ。)



(付記)

 身の穢れを感じるのはおもしろい。マスゴミ時代を思うと。

 見せかけ、誤魔化し、上っ面病だったってこと。俺も。



虚構と馴れ合って飯を食う者 その2

 「虚構と馴れ合って飯を食う者」(7月9日、共和制の魂 その42)を書いて、昨年12月、あるブログに以下のコメントを書いたのを思い出した。

 やらせ、みせかけ取材を告発したブログ。

 なぜか、まるで同じ臭いを感じる。虚構に擦り寄る点で。

 以下三連投の投稿コメント。



「この人はジャーナリズムの形(上辺)の模写に長けた、門前の小僧だったのだろうと思います。性根自体は本人の問題ですが、この種の性根がまかり通るベース(結構まかり通っているのではないでしょうか)には、誰でも最初は門前の小僧―これを本物に育てられない、または本物性を秘めた門前の小僧を見分けられないこの種の業界の偽物性(立場でしか動かない人々)があるように思います。本物または本物性を持った人々が「小うるさいだけ」と遠ざけられた景色を、ずい分見た記憶があります。」



「劣化に関する一体験

 私は三十数年前、大阪のある放送局のニュースカメラマンでした。その頃私は、当時としてはユニークな記者レポートの撮影法を編み出し、実践したことがあります。これは報道局内で好評でした。しかし同行した記者(系列新聞社の役職の息子)は次回から、取材に関する事前情報を一切私に出さなくなりました。これをされるとカメラマンはお手上げ。指示通り、唯々諾々と撮るしかなくなるわけです。私はカメラマンという自分の領分で、自分の仕事をしたいだけでした。

 縦社会、仲良しクラブ(都合のいい者同士の)の体質に嫌気がさして辞めた後も、食い詰めた私は何年か、地方の新設テレビ局と関わったことがあります。そこで番組取材中、私はたまたま行政の環境アセスメントの誤魔化しをみつけ、取材しようとしましたが、あからさまな圧力であっさり潰されました。この時私は圧力をかけて来た行政よりも、圧力をそのまま受け入れ取材を潰したテレビ局の方に腹が立ちました。普段は、地方人のおとなしさや主体性の無さを馬鹿にしていた東京のラジオ局天下りの管理職は、豹変して私を呼びつけて怒鳴り、私も彼を罵倒して業界との関係は終わりました。十九年前の出来事です。

 この時のもう一つの出来事も忘れられません。管理職が私を呼びつける前夜、東京の下請け会社から出向したか天下ったかの男が、「自主的」に手を引ようにと、やくざまがいの脅しの電話をわが家にかけてきたのです。彼の意だなと直感して怒鳴り返し、翌日の衝突となったわけです。

 東京の下請け孫請けが、タコ部屋まがいの職場で散々こき使われている(殴られ、先輩のパンツまで洗わされる等々)の話は、田舎に戻った者達に聞かされていましたので、ああこのやり口だなと思ったものです。そうした中、「親」の覚えめでたい者、その種の要領に長けた者が、あわよくば地方の新設局の社員や、新設下請けの頭目になれるということも。

 今もたまには、この業界人と出くわすことはあります。「親」の尊大さ、「子」や「孫」のあきらめ、卑屈さ、唯々諾々は、とうに血肉となった印象があるのみです。

(追伸)

 この種の構造を嗅ぎ分け、居住者の心(不遜や虚栄心等々)を嗅ぎ分け、そこを突いて仕事を仕組み、意に沿うように内容をねじ曲げ、上り詰めようとする者は必ず現れます。人の心の多様を認めない縦社会、「民」は装いだけの官僚制社会では。」



「劣化に関する一体験(二)

 三十数年前のニュースカメラマン時代、私のいた映像部(カメラマン部屋)は「親」「下請け」「下請け・Ⅱ」の3社とアルバイト達でごった返していました。ボーナスが出るたびに嫌な思いをしたものです。

 それでも大阪は実質主義の土地柄。当時はそれぞれが技量と仕事で関わっていたため、現場では立場や待遇の違いで嫌な思いをすることはありませんでした。(「下」の人々はずい分我慢もしたのだろうと思います)。現業仕事の嫌な思いはむしろ、前にも記した通り、局の同じ社員達からでした。

 7年いた所を辞める時、系列新聞天下りの局長は、あいさつした私に「去るものは追わずだ」と返しました。無能で厄介払いだったにしても、職場仲間への仁義と思い、最後の一日まで働いた者に言う言葉かと思い、「社会の縮図の職場にいたので、今後どこに行っても困りません」と投げ返し、部屋を出たものです。

 せりふはその後、ものの見事に的中。食い詰めた私は何年か、田舎の新設局の孫請けフリーターとして糊口をしのぐことになりました。その田舎は東京の版図。局も下請け孫請けも、ずい分体質が違いました。違いを一口に言えば、ヒエラルキーの構図をそのまま受け入れる(鵜呑みにする)かどうか。大阪は一面東京圏以上の差別社会ですが、構図は構図、自分は自分、案外これがはっきりした社会。現場の人の関係は仕事上の工夫も含め、それぞれが能動的である限りは成り立っていました。(今はずい分変わったと聞きます)。

 放送という業種で言えば、東京圏はヒエラルキー・既得権が前提(鵜呑み)の社会。人の間で意気に感じるたぐいの能動性など生まれる余地はなく、筋を通すのたぐいはただの馬鹿。となれば構図、構造を嗅ぎ分けて泳ぐ以外、浮かぶ瀬はなくなるように思います。東京の局もいっ時垣間見たことがありますが、言葉はリベラルという人々の集まりという印象でした。飲みに誘ってくれたカメラマン達にはなぜかまだ、大阪と同じ人の匂いを感じたものです。私と同じ田舎者の土建屋宰相がお縄になる頃の話です。「コネ、ツテ、閨閥抜きの男がお縄になるのは不公平」。そう社報なるものに書いて、ちんぴらカメラマンと馬鹿にされたのも、今は懐かしい浪花の思い出です。

 場違い的余談、失礼しました。マスコミ論の学生さん達も、こういう所(視点)から入るのも面白いと思います。」