暮らしの体験からの共和制

 共和制。

 これは俺が人生の中で否応なくたどり着いた思いであり、思想だ。

 家族と共に長年揺れ揺られ生きた、小船のごとき暮らしの実体験の中で。

 どう考えても自分が始まり。我あり的な観念では無い、感性体感でそう思う。

 暮らしはどんな時も、ここが出発点だ。人は元々、他人に乗っかっているわけでは無いし、他人に食わせてもらっているわけでも無い。この当たり前が前提なのだ。

 自分はどう生きるか、孤独という生存の事実に立って人どうを愛するか、活路を見出すか、食っていくか。自分を見失わずに。

 これらは総て無意識的なものを含めた、トータルな自分が前提になる。観念用語ならば「実存」が最も近いだろう。

 虚心坦懐に、胸に手を当てて生きる。わが総体を感じながら。

 生れ落ちれば否応無く放り出される所与の状況の中で、どう生きるか。他人とどう交わるか。

 これらはどれも、自分が決めることなのだ。所与の観念等々に囚われない、虚心な自分が。その場その場はどんなに不完全でも。

 不完全? それは自分に問うこと、他人ではなく。権威や宗教、政治的なものに対してではもちろん無い。これが、いまだ世を覆うあらゆる道学との違いだろう。

 われ思う、ゆえにわれ在り―というよりも、われ体感する。自前の経験と感性に根ざして。ゆえに自分在り。ここが総ての始まり。老いていようが、若かろうが。

 それは社会や政治体制を構築するにおいては、嫌でも共和制に行き着く。

 これが俺の思想の社会的要素の軸だ。

 絆は共鳴共感、人は並立(人はそれぞれ)の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。