アナクロニズムの維新じゃないルネサンス=人の復興を

 身体が、身体感覚が希薄じゃ駄目。

 なぜ駄目なのか?

 頭でっかちの裏返しだからだ。

 頭は、目先の事柄には「良い」知恵を出す。

 社会も人も自分もトータルに捉える知恵は生まない。

 だから既成の体制に必ず乗る。乗らざるを得ない。部品としてのわが身の欠陥を埋め合わせるために。

 雇われサラリーマン、経理屋、事務員ということ。

 この国では、小才の利く経理屋、事務員が幅を利かせて利益を得る仕組みになっている。官僚制社会ということ。できあいの幻想、仕組みの上に築かれたところの。民官含めて。

 この国の○×式、科挙学歴・資格試験方式の学校教育制度は、この手の経理屋しか生み出さない。

 本源的な意識に掉さすことを回避するからだ。

 深くものを考えない、考えさせないということ。深く考える、感じる者達は、ほぼ必ずはね出される。

 ゆとり教育というのが先年まであった。時間はかかったが、それなりの成果は生み始めたと俺は感じた。時々小学校の子供たちや教師たちと関わって。

 地元の暮らしから知恵を得るなんてのは、案外良かったと思っている。自由裁量の時間の中で。

 承知の通り、それには横槍が入った。九九が出来ない。円周率を教えられないなど、枝葉の事柄を取り上げて。

 御上の意向を読むことには長け、言われたことはやりましたの経理屋、事務員の脳みそしか持ち合わせないマスゴミ達は、これをおもしろおかしく取り上げた。そしてゆとり教育は潰された。せっかく芽生えた芽も、随所で枯れつつある。

 人を育てるには時間がかかる。わが身を育てるのと同様に。

 人も自分も修身訓話・口先じゃない、背中で育てるしかないからだ。実践の中で。

 自由裁量の場は、教師も子供も地域の協力者達も知恵を絞り、それが出来る良い場だったと俺は思っている。

 これに代わる点数主義、詰め込み教育の復活。

 「役立つ」人を促成栽培するには、深く考えさせず、思考思想を鋳型にはめ込むのが良い。大坂の品性下劣なチンピラ市長が、君が代を強制する意味もここにある。アナクロニズムの幻想を描く、統治者達の目的合理性。目先の銭金

 踏絵を踏み、人も自分も深く思わなくなった者達は、ロボットになる。鋳型の中の。

 地域の学校史を資料や手記、証言から作る機会が何度かあった俺は、明治以降この種の愚が周期的に繰り返されるのを見てきた。

 鋳型教育は、短期は「成果」を生む。

 それは必ず復讐を受ける。真っ当な人間性の側から。

 当たり前なのだ。維持できないのだ。部分部品に成り下がった人生では。人も社会も。

 このことを真に、深く、自分の感性と体で考える、感じる社会。この社会の実現は必須だ。小才しか育てない明治以来の官僚養成、雇われサラリーマン養成教育と、それを求める「国家は統治」の馬鹿げた社会政治体制をドブに捨てて。 


 共鳴共感、義理人情、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。


(付記)

 個として地を這う人生を選んだ俺が、最もマクロな事項を言うのは、批判者で終わったら負けだと思うからだ。まずは自分に対して。

 個を真に突き詰めていけば、必ずマクロに、マクロの課題に行き当たる。

 これは人生の必然だ。カマトトの良い子・小国民を装うのを止めれば。