虚構の自己の否定と国民国家
自分というものを真に振り返れば、誰でも多分気が付くだろう。
飼育された「自分」とそうでない自分。この違いに。境界は判然としなくても。
これは決して二項対立では無い。生きる上で本当に大事なのは、後者なのだ。俺は六十余年の人生で、このことははっきりと感じている。
飼育された自己。それは他人にとっての便宜の「自分」であり、人の顔色や空気で動く「自分」であり、支配者たちが巧妙に決めたモラルに依拠し、それに載った「事実」に振り回される「自分」なのだ。
「人はそれほど独創的では無い。独創を追い求めたため、現代人はかえって自分を見失った。」
これはかつて文壇のいわゆる大御所や、その種の本を生かじった知者気取り達が好んで口にした近代的自我の批判だ。
いわゆる保守勢力のエトス、国民的権利の制限を意図する改憲論者の論拠とエトスは今もここにある。
「人を先人を尊敬しろ。」「手本は必要だ。」
そう、手本は必要だ。時には敬意も必要だろう。青臭い青年の一時期には。
だが、その種の時期にも真に必要なもの。それはここで言う後者の自分なのだ。
本物の手本なるものに触れるには、真に敬意に値するものに出会うには、何よりもまず自分が、自分自身への手触りが必要なのだ。魂が真に感じるものを得るためには。
説教師達は、この種の魂は嫌悪し避ける。拠って立つ自分の裏側を見透かされるからだ。
説教師達が求めるもの。それは心の冷えた「良い子」に過ぎない。飼育の檻の中の。なので彼らは、わめけばわめくほど人を社会を衰退させるという自家撞着に陥る。
彼らが批判する近代的自我の欠陥。それは真の自分が思想や論理の形で育ちにくいこの国の土壌の中で、焦燥する若い魂が陥る一時の停滞に過ぎない。
若い彼らは自分を表すために、往々借り物を使う。統治の側の説教師達が空疎な虚構に乗っかるように。
それはいわば目くそ鼻くそ。も少し上品に言えば、テーゼに対するアンチテーゼ。それだけのものなのだ。
真の国民国家の樹立。そのために必要なのは、この頃流行りの虚構の物語ではない。自分の発見なのだ。観念・頭で定義される以前の。
必要なのは自前の、熱い魂。これに尽きる。
嫌でもそれは見つかる。自分の足で生きれば。
共鳴共感、人は並立・人それぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。