塾通い、学校仕込みじゃ何んにも出来ない

 今は危うい電気屋の「経営の神様」が作った、番頭・丁稚養成の政治塾。その出の者達。

 その人間的馬鹿さ(飼い犬的お利口さ)が露骨に表れたのが、何で与党になったかの根拠をまるで持たねえ野田という男の「解散」の弁だ。

 約束だの何だの言うが、要はこの国に延々続く統治構造に寄り添っただけ。保身のために。国民国家では無い、封建由来の御家大事、必然的に既得権大事の統治構造に。

 託された思いを魂を、既存の体制・統治構造に平然と売り渡す者達。

 何んのことは無い。人としての構想力のかけらも無く、組織の内側の立ち回りだけに長けた、そんじょそこらのサラリーマンと同んなじというだけの話。東電なんか好例。

 この種の精神構造を育むのが、お答え合わせの精神だけを育む塾・学校の縦社会、権威主義的社会というのは分かり易い話だ。

 魂の自由。それに根ざした人の自立。

 この精神無き所には、何ものも生まれねえ。

 これを育むには一体何が大事か。これは徹底して問うことだ。まずはわが身に。どんなに時間がかかろうが。

 決定的に言えるのは、生身の人と関わることだ。自分を裸にして。まとう虚構を脱ぎ捨てて。

 それが嫌なら一緒に沈むしかない。腐った泥船と。



 俺は小沢一郎を支持する。当面。

 彼はこのことに気が付き、行動に表している人間だろう。

 国民の生活が第一のスローガンが、人に根ざした真の国民国家に行き着くかどうかは不明だが。