俺が学生だった頃、『青年は荒野をめざす』とかいう歌があった。

 俺の実感じゃ、その歌以後(以前のことは知らないのだ)、荒野をめざした奴に出くわした記憶はない。



 荒野は別にジャングルでも、殺伐とした政治闘争の世界でも、幸せに背を向けた貧乏暮らしでもない。

 俺にはそれは、自分の中の赤い血の世界。それだけだった。



 何のことはない。自分の人生ということ。

 その結果なら一獲千金でも、社長さんでも、職人でも、貧乏暮らしでも、政治闘争でも一向に構わないと思ってる。あえて言えば、確率的にゃ貧乏暮らしに傾くだろうな。このクニじゃ。



 このクニにはフォーマットがある。歴然とした差別の構造の。

 そこから自由になるかどうか。

 仏教的には還相というやつか。



 行ったり来たりの堂々巡り。親がちゃんとしてりゃ、そんな馬鹿やることは、子はねえだろなと思う。

 心は立身出世の俺の親が、ちゃんとしてるわけは無かった。子の俺が、馬鹿免れてるわけは無かった。



 一生もんの性根のすげ替え。在りもんの世界生きる奴らから見りゃ、延々無駄な努力。給金は、在りもんの世界からしか発生しない。ふんだくる金以外は。

 金はやっぱり、ふんだくるもんだ。こいつ分らなねえうちは、いつまで経っても在りもんの世界の住人。泥棒奨励の話じゃねえぜ。



 『荒野をめざす』の作詞家は、批評の世界の住人だ。歌ってた奴らは知らねえが。批評はどうひっくりかえしても、在りもんの世界。俺に散々批評くれた奴らは、わんさといた。

 自分の世界「めざす」馬鹿なんていねえわな。本来的にゃ。