馬鹿は死ななきゃ… ―「戦後」幻想― (その1)

[日々雑感][共和制]


「(滑走路の)1車線がずうっと続いて日本とは情けないなあと。「ごね得」というか、戦後教育が悪かったと思うが、公のためにはある程度自分を犠牲にしてでもというのがなくて、自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張もできなかったのは大変残念だった」(中山成彬asahi.com)



 バカと言っちまえばそれまでだが、これが保守・権力者の本音だべ。


 戦後教育がどうのと言ってるが、戦前仕込みのピラミッド教育の中、鼻面エサぶら下げられお勉強。「お利巧ね」とほめられ上昇した“秀才”のなれの果ての言にしか、俺にゃ見えねえ。


 努力は必ず報われる。こいつエサに一本釣りの、身を立て名を上げシステム。「国家の中堅」養成・人材確保。努力はいいさ。やりたきゃやりな。だがはっきり言っとくぜ。努力の人はごまんといる。エサぶら下げられなくても。「報われ」幻想無くても。自分に賭ける。それが人間だ。


 それぞれの思い抱えて生きる人民の「栄華の巷」低く見る、お利巧・出世幻想。この種の選民意識で人民蹂躙。「努力の秀才」東条英機もそうだったべ。


 戦前譲りの仕切り屋共への怒りが成田に出、日教組に出。こんなイロハも見えねえのが、「利巧」なるもんの本質。目先の偏差値・尺度で自分お手盛り。何んかの仕組みに持ち上げられなきゃ居場所もねえ、ぼっちゃん秀才。二世三世と一緒さ。脳味噌ん中。


 何年前だか、東大とかの馬鹿学生が言った。「ボク達努力したんだから、報われて当然」。この手の馬鹿が役人、重役。良くなるわけねえさ。世の中。こんな奴らのケツ追っかける、お受験婆あ・親父達。はっきりしてるぜ。戦後とやらと何の関係もねえのは。