転載 (やめちまったサイトより)

※ひとり言じゃねえな。このころのは。



危なかった四十代 (その一) 逝こうか
( 08/05/2006)


 振り返れば四十代は危なかった。真夜中に首を吊ろうとして、ベルトに首をかけたこともある。


 俺は本気なのか? そう思っていたから、本気じゃなかったのかも知れない。家が安物で、ポンと下を蹴ればブラリという場所が無かったからという気もする。その程度で命を左右することも、案外あるのだろう。


 四十代が危ないというのは、五十代半ばも越えつつある今は、よく分かる。諸々の条件が悪いのだ。私について言えばまず、老化の一つとしての体力の低下を直視しなかったということがある。


 老化は避けられない。だが速度は緩められる―。この辺について無自覚だった。やれば何とかなる。鍛えれば、まだまだ行ける。実は行けないのだ、三十代までのようには。それに無自覚だから、自信もなくなり、自分を責めもする。


 子供が青春期に入ることも、鬱な気分に拍車をかけたように思う。理由なき反抗。何をしても反抗。分かっていても気は滅入った。あと何年続くかと。妻が反比例して元気に見えたのも、この時期だ。


 実はこれも鬱を昂進した。まるで分からないのだ、お互いが。子供達の大事な時期に、お金もかかるこの時期に、鬱になんかなってる暇ないはずよ―。そう、その通り。分かっちゃいるけど、それがますます滅入った気分に拍車をかける。「俺は一体、何のために生きてるのだ…」。


 この愚問を愚問と思うまでには、ずい分時間がかかった。そこには年齢が誘発する病理のほか、意識に巣食う社会的病理も絡んでいた。例の固い甲羅の部分だ。この辺を家庭的な人に分かってもらうのは、無理な相談なのだ。これこそ自力救済。引きずり続けたバカさは、自分で叩き壊すしかなかった。




危なかった四十代 (その二) 逝った者
(08/05/2006)


 四十代で自殺した男は、私の周りにもいる。数年前の話だ。彼と会ったのは、死ぬ三年ほど前の一度だけ。それも、ある集まりでの立ち話だった。


 たった一度の出会いまでの間、私は五歳ほど年下という彼を、身近なものに感じていた。十数年前のことだが、彼は私が書いたあるルポをほめてくれたのである。人づてだったが、私はうれしかった。それまで、仕事の評価を言葉にして表す者に出会うのは、皆無に等しかったからだ。しかも彼は同業だった。活字の世界でそうした率直さにまみえるのは稀というのが、私の印象だった。私はそれからもその出来事と彼を、忘れることはなかった。


 だがたった一度の出会いは、苦いものとなった。その頃彼は、ルポライターとして知られ始めていて、私は十年一日、その日の糧のための記述者だった。その日出会った私は、互いの仕事について話をしたあと、かつての好意への思いもあって、「期待してます」と彼に言った。すると彼はむせ返って、口のものまで吹き出したのである。


 それは、彼の自負の所業だった。資格のない者に上から言われたー。そんな風に受け取ったのだろう。


 今にして思えばの話だが、その頃彼は多分、行き詰まりを感じ始めていたのかも知れなかった。自分の仕事と生活そのものに。集まりで彼は、私が他の者と交わした子育ての大変さの話を、小馬鹿にしつつ確かに聞いていたのだ。

 記述の仕事など、ほんの一握りの者を除けば、一家を支えるほどの賃金も、また時間も得られないのは、地方も東京もそう変わらないのが実態だろう。そんな中で、彼や彼の家庭をどのような風波が襲ったか、おおよその察しはつく。経済的困難は、類型的な出来事を引き起こすものだ。


 私は今も、彼を弔う気にはならない。彼は私が捨てようとしたものの方角へ向かって行って、死んだ。フリーランスならば、振りまいてはいけないものを振りまきながら。




危なかった四十代 (その三) 「がんばる」
(08/06/2006)



 初老性の鬱の者に「がんばれ」と言うのがまずいのは、自分の経験からもよく分かる。だががんばること自体、人には不可欠かつ貴重な体験であるのは、やはり変わらないはずだ。


 「がんばる」で思い出すのは、四十代半ばで自殺したある漫画家の作品だ。彼は、がんばる野球少年達の姿を描いていた。作品は、私が二十代の頃書かれたものだった。当時、あまり漫画を読まなくなっていた私は、連載されていた少年誌で数回見ただけだった。だがそれだけでも、印象に強く残る作品だった。物語の舞台は東京だった。そこには、どこの土地にもいる、地(じ)の少年達の姿が描かれていた。


 私が作品に再び出会ったのは、今住む街の古本屋だった。草野球の帰り、小学生のわが子と訪れた本屋の棚には、単行本二十二巻の全巻が、ビニールひもに縛られて置かれていた。値札には三千五百円と記されていた。


 月々の生活費の支払いにも苦しむ状況の私には、それは大金だった。だが欲しかった。作品のことは、子供にも話していたからだ。「昔おもしろい野球漫画があってね…」。話は子供の脳裏に刻まれていた。「これがそうだよ」。言うと彼は「欲しい!」。そう言って目を輝かせた。「でもなあ…」。私はまだ迷っていた。


 すると、やりとりを見ていた私と同年ぐらいの店の主が、こちらに声をかけた。「三千円でもいいですよ」。「買おう」。私にしては潔い決断だった。私と子供は、アパートへの帰り道の公園の芝生に寝転んで、大半を数時間で読み終えた。中身は、過去の印象を少しも裏切らなかった。「面白かった?」 「うん!」。子供は漫画を、その後も何度も読み返した。


 その時私の印象に残ったものの一つに、漫画家自身「がんばる」と名付けた、ある章がある。野球には何が大事ですか。その質問に「がんばることかな…」。それしか答えられない主人公にあきれた新聞部員が、他の運動部の練習量をはるかにしのぎ、夕暮れになっても練習をやめない野球少年達を見て、ようやく納得する筋立てだった。この漫画の良さの一つは、指導の大人達が登場しないところにあった。描かれているのはすべて、少年達の共鳴の絆が生む出来事だった。


 当時も感じ、今の感じるのは、「がんばる」は作家自身の姿だったろうということだ。その数年前に死んだ彼の死因を、私は知っていた。そんな彼の姿勢が、死と無関係ではないに違いないことも、その頃も今も変わらずに思う。漫画を買った三十代後半の私と、五十代後半の今の私と。そこに、幾分の受け止め方の違いはあるにしても。


 彼は言わば、自分の青春に殉じたのだ。彼は個人になりきれないのではなかった。今は希薄なのかも知れないが、個人が個人として、自分の世界の内側で情熱を燃やすほどに、共鳴して人が集まるという状況が青春にはある。多分彼の周りには、そうした状況があったのだろう。


 それを背負っていくのは、苦しいことだ。ことに四十代という、青春の意欲を体が支え切れなくなる時代には。


 その歳になればそれぞれが家庭を持ち、情熱に否応なく生活が絡みつく。情熱が「金」になれば、マシンとしての出版のシステムがへばりついて来る。そして難しいのは、思い切って切り捨てられるものとそうでないもとの境界が、渦中では見えないことだ。


 「がんばる」者が否応なく行き着く人生の岐路。組織的なものではない、個人にスタンスを置く者にも必ず、一層困難な災厄は降りかかる。それを越えられるかどうかは、ちょっとした運や周りの様、渦中の当人の心のあり様によるのだろう。


 生きることは、結果の保障のない見えない壁に体当たりすること。そう感じる人々は、彼の作品からも死からも、何かを汲み取るのだろう。そうでなければ彼の漫画は、子の人生にはあまりに過酷な悪書なのだ。




危なかった四十代(その四) 作家の死
(08/07/2006)



 私が二十歳の時、大騒動の末腹を切った作家も、四十代を襲う危機の中で死んだ。彼は四十五だった。


 共感するのは、彼は場末の田舎と裏表をなす中央の虚構にあぐらをかく、そんな東京人のずるさを嫌っていた。ある映画評の中で彼は、主人公の孤独と虚無を賞賛して言った。「個人が組織と闘うのは善だ」。


 それにしては半端だった。どうせならボロ雑巾になってもいいから、個人を通せばよかった。壊れた虚構の実体化をわめくなんて、ガラクタ取り上げられて、嫌がらせで泣くガキと一緒じゃないか。


 彼自身も、毛嫌いする東京人だったからだ。彼は自分の小説が、骨董屋がほめたらやっと値の付く置物のたぐいだと知っていた。自分自身も空っぽな、一生手習いの塾通いの坊やのなれの果てと知っていた。


 ぶち壊しゃよかったんだ、空っぽのすってんてんになっても。落ちぶれてヨメさんが別れると言うなら、ハイそうですかとすりゃ良かった。体裁悪いと親父が言っても、無視すりゃ済んだのだ。