日本人と韓朝人
いつの頃だったか。
井出孫六という作家だか評論家だかが、新聞か何んかにこんなこと書いてた。
「パリのエッフェル塔でのこと。撮影禁止場所と知らずに、つい私はカメラを取り出し撮影した。そしたらいきなり突き飛ばされた。突き飛ばしたのは韓国人だった。マナーを守れない私を、同じ東洋人として怒ったのだろう。ありがたいと私は思った」
読んだ瞬間、あほかと思った。偽善インテリ・「文化」人。日本人と同根の、自分持たねえ韓国人。
「ありがたい」ってのは、アタマ(教養)が言わせたんだろ? 瞬時のその場の気持ちじゃなくて。それとも、瞬時の感性かき消えるほど、教養なるもんが肉体化してるんかい?
相手が何で突き飛ばしたんか、田舎もんのおいらなら瞬時に分かるぜ。
向こう(おフランス)の側に立ってるんさ。韓国人なる人物は。
田舎もんのおいらが一番腹立つのは、何んかの場に出りゃ、向こうの側にすうっと寄ってもの言う田舎もん。
「知ってる」田舎もんが、「知らねえ」田舎もんに言わなきゃならねえ時ゃ、立ち位置変えねえで言うもんさ。どんな場所でもね。
こいつが最低限の男の仁義、人の仁義、同胞の仁義。ガキだって直感で身に付く態度さ。普通の感性ならね。
なんでそれが出来ねえのか。出来なくなるのか。
ヘンなもん刷り込まれるからさ。何んかに向かって垂直構造。こいつをね。
真っ当な反抗ってのは、革命ってのは、どんな時代もこの構造の解体と結び付いてる。でなけりゃ、人の心に火なんか点かねえさ。博愛、共感、平等。社会と自分に根深く絡む、何んかからの自由への意思もね。
日本人一般にも韓国人一般にも、いまだこいつが希薄ってこと。
どっちの側に付けなんて話じゃねえぜ。ヘンな刷り込みじゃねえ、自分の感性、自分の側に居ろいってこと。こき下ろす態度なんて出ねえさ、そうすりゃ。革命の真髄さ。
西欧崇拝プチブルの福沢諭吉の昔から、近間見下すニッポン人。単細胞に張り合う韓国人、将軍様の朝鮮人。
この解体。小難しい話じゃねえさ。小商人根性、見栄体裁、上っ面の性根。こいつ暮らしの中で変えてきゃいいだけさ。自己否定なんて、昔のどっかの学生みたいにアタマでわめくんじゃなくてね。