人情と思想

 人情って奴は大事だ。っていうか、人間の根源だろうと俺は思ってる。

 人間が他人に対して我慢できるとすりゃ、こいつで相手を感じ取る時だ。

 相手を感じ取る時ゃ、感じ取る方は沈黙する。既成観念や思い込みがへばり付きやすい言葉は、たいがい邪魔なのだ。

 俺は、どうひっくり返しても俺だ。だがこいつもこいつだ。

 これ徹底すりゃ、大抵のことは我慢できる。相手も自分も確認できるので。情に流させるなんてことにも、ならねえ。

 人情ってのは感性だ。本能本性と、自分の人生体験等々に醸成されるところの。

 自分と他人の付き合わせってのは、ここにおいてだろう。他人という存在に対して、アタマ(体のいい理由付けやレッテル張りをしたがる体内メカニズム)じゃねえ、気持ちで相手を見、気持ちで自分を維持することになるからだ。相手の実存に拮抗する自分。そういう自分を確認する自分。ケチな対抗心のたぐいじゃねえところで。ああ、俺はまだまだかなって程度はいい。

 知性知識に意味があるとすりゃ、こうした感性に根ざすところの論理性(人の生き方や社会の仕組みとの関わり方の表現)だべ。

 文芸芸術も、社会理論、思想も、この上に築かれなきゃいけねえと、俺は思ってる。

 「おう、おらもそう思う」。この手の共鳴を呼ぶ思想。相手の心に、この手の入り方をする思想。誰々が言ってたからや体裁装う意味付け、これが先例だからのたぐいじゃねえ、直感で伝わる思想。実生活の実感にストレートに飛び込む思想。損得打算、現世利益のニンジン思想とも似て非なる思想。

 ルーツを失くし、もっともらしいだけに成り下がった言葉や概念も、こいつによって魂を吹き込まれる。

 共鳴共感、人の並立、人民民主の共和制万歳。

 この言葉も、人間のルーツに根を置き浮かばなきゃ、何の意味も無くなる。世にはびこる擬制の仕組み、空っぽな心を反映する国体なるもの同様に。