尊敬と説教の解体

 またぞろイチロー話から。あちらの学校とかに出向いて、「先生や友達を尊敬する大切さ」説いたとか。

 子供が親のあとを追うのは、ある時期まで当たり前だ。なんかにあこがれたりするのも、ある時期まで当たり前だ。ヘンにこましゃくれて、斜に構えた目がガキの頃から身に付くのは、間違いなくよくねえ。

 だが説教はよくねえ。まして「尊敬の大切さ」口で言うとなっちゃ、糞くらえだ。

 俺としちゃ珍しく、先日人と酒を飲んだ。子育て終盤にさしかかってるとかの相手は、酔いも手伝いしつこく言った。「やっぱり背中ですよ。背中で教える以外に手はないです」。色々反省込めてのことだろ。

 反省込めて、俺も聞いた。何も言うこたぁねえから、しらけねえ程度に相槌うちながら黙って聞いた。そうさ。説教なんざ糞食らえなのだ。

 俺はイチローも松坂なんかも、偏差値野球のエリートなんだろなと思ってる。尊敬とやらする相手と、歯牙にもかけねえ相手とが、案外明確なんだろ。

 ニッポン野球ってのは、この係累が大半だろう。だからあっちみたいに、選手時代は二流、三流なんてのは、まず監督にゃなれねえ。ずっと二軍暮らしだったなんてのは、ぜったいなれねえ。

 娑婆を真っ当に、頭冷やして、自分の上げ底、履かされた下駄脱ぎ捨てて渡ってみりゃ、たいていすぐに分かることがある。世の中にゃ尊敬するほどのニンゲン様もいねえ代わりに、見下すほどの奴もいねえってこと。いるとすりゃ、何かの中に立てこもって威張る奴、「上か下か」ばかりでもの見る奴。こういう手合いにゃ、うんこひっかけていいよ。ひがみっぽいのも同類だけどね。

 餅は餅屋って言ったけど、人間ってのは必ず、それぞれの環境境遇の中でそいつなりの生き方、技法を身に付けてる。相手と関わる時、こいつを感じ取るのが、まずは何より大事なのだ。人それぞれ=他者の実存感知の、実際上の入り口はここにある。人から得るもんってのも、必ずここにある。

 スポーツも娑婆も、人間嫌でも勝ち負け、優劣は付く。開かれた、ちゃんとしたルールの上なら、こいつは仕方ねえ。だがここが大事なとこだが、勝ち負け優劣って奴は、人の力量人間性のほんの一断片に過ぎねえことがほとんどなのだ。

 一断片の勝ち負け優劣が金に結び付き、娑婆の中で浮いたり沈んだり。そうさ。人生はゲームみたいなもんだ。終わったらおつかれさん。一杯やろうや。

 これがそうはならねえ。ならねえのが老舗面、へんてこりんな権威とつるんだ官僚仕様の偏差値国家。そいつが骨の髄まで染み込んだ小市民社会なのだ。おつかれさんで終わっちまうはずの勝ち負け優劣は、どこまで行っても追っかけてきて、ニンゲンにへばり付く。

 野球でも何でもそうだが、ある尺度ん中じゃ芽の出ねえ奴が、案外いいもの持ってるなんて例はごまんとある。当たり前なのだ。基準・尺度の中でスイスイできねえ奴ってのは、反省込めた努力等々色々してるもんさ。そういう中じゃ、色んなものを拾うことはある。スイスイ先に行った奴じゃ見えねえものを。

 まごまご、スイスイ。どっちがいいって話じゃねえさ。人それぞれ。それぞれの中に色んなもんが埋まってる。おつかれさんで終わった後、おおそうかそうだったのかと言い合って、旨めえ酒飲めって話。金は天下の回りもの。稼いだ奴が払って。

 それができねえのがこの国さ。格が違うだの、顔で野球やるだの、馬鹿なこというからね。島国内じゃ、それで通っちまうとこが問題なのだ。二軍選手上がりの一軍監督なんて、夢のまた夢。

 単純な話さ。俺は俺、人は人、おうそうかと聞く耳、見る目がねえからさ。相手を感じる自前の感性、魂が育ってねえのだ。心がいびつなのだ。教え垂れてもらいたがり屋、手習い人生のガキばかりってこと。野球も生身の娑婆も。

 真っ当な職人は言うさ。「盗まにゃ駄目だぜ」。他人のノウハウ、自分流に取り込めってこと。自分の生き方、人生に。

 尊敬なんて、ある時おさらばしなきゃ。どいつからも、どの方角からも、いいもん盗み取るために。自由に相手を感じるために。自分のスタンスで。

 説教したがり、尊敬させたがり。こういうのからは、案外得るものは無え。どっか空々しいだろ。そこそこ勝っても。この手が監督だと。