「終身言わず」と「革命的楽観主義」

 薩摩の西郷さんの話の中に、「(相手が)その人に非ざれば終身言わず」ってのがあった。

 何んでもかんでも「話せば分かる」なんてもんじゃねえ。相手見て言えってこと。

 今時はやりの「説明責任」のたぐいも、こいつは言える。

 権力権威の門前の小僧、サラリーマンやインテリ共(精神の官僚達)は、自分の脳みそ(利権とつるんだ縦社会の感情)に沿ってしか、人の話は聞かねえ。

 マスコミなんてのはたいがい民間装う官僚頭脳だから、この手の連中に「真心真情」「説明責任」なんてえと、ずっこける。体で生きる奴は。

 体で感じねえ。感じる力がねえ。結局は感じねえ振りに行き着く。垂直社会の意識構造にへばり付く、感情と打算で。

 この手の垂直人種とは、「意気投合」しねえ方がいいぜ。なまじ体で感じても、あとで必ず僻む。「おう、そうだ。分かる分かる」。分かるのは「こいつはやばい」ってこと。俺の足元突き崩すヘンなもん持ってる。そう扱って来るの落ち。実存の者達、体で生きる者達を。

 人間、それでも陰にこもっちゃいけねえ。体当たりで突破の八方破れが、あったかさがどっか無きゃ。これが世にいう革命的楽観主義さ。

 こいつは混沌を生きる人民民衆への、イコール自分への根本的信頼に根ざしている。カストロの「私はアメリカの国民は信頼する」ってのはこれだ。

 無の中から、混沌の中から新しい何かが生まれる。これこそ官僚頭脳・仕切り屋共が恐れる、何んでもありの人民のるつぼの本質だ。灰の中から再生のフェニックスだ。

 垂直頭脳にゃ終身言わず。だが何度島流しに遭っても、失せねえ熱。

 こいつは共感共鳴、人の並立、人民民主の共和制に必ず行き着くさ。嫌でも。