「鷹揚」と「体制」と「反体制」

 営業仕事なんかしててまず信用しねえのは、街場の旦那衆なんかにゃよくいる「鷹揚」タイプ。

 「いいよ、いいよ」。「分かったよ」。

 この手の「もの分かり」は、ある種の予定調和に基づいてるってのが、嫌ってほど分かるからだ。

 なんかの思い込み。勝手にこいつで相手を「見抜き」、ある時一方的に好意寄せて来る。

 こういう「善意」が長続きしねえってのは、はなっから分かるから、腹ん中は徹してしらけるようにしてる。

 インテリ、サラリーマン、大學のセンセイなんかにも、案外この手はいる。

 「なんでもあり」の人民の意味が、真っ当にゃ分からねえ。分かろうとしねえ。それは、この手の者達だ。

 戦後リベラルってのは全部これだったと、俺は思ってる。教養人だからね。実体から何んかつかみ出したわけじゃねえところの―。

 自分成り立たせてる構造の解体。ここにゃ本能的に足踏み込まなかった。当たり前ってば当たり前。利害特権の根底だしね。

 「善意」にうかつにはまり込み、ふっと気が付いたらカヤの外。家柄自慢、学歴自慢、「異国語」自慢の。こんな経験あるべ?

 その昔の「反体制」なんかも、こんなもんだったと思ってる。

 俺はサラリーマン時代、「体制派」と思われてた。仕事軽蔑する者達から。

 軽蔑する意味に根拠ねえわけじゃなかったから、俺も入ってたけどね。何んやら労連。まだあるんかい?

 その頃感じてたのは、どんなクソ仕事も本気でやらなきゃ、何んにもつかめねえんじゃねえかなってこと。連帯とやらの意味も含めて。こいつは三十年前も、二十年前も、六十近けえこの歳になってもまるで変らねえ思いだ。

 本気でやると、いろんな障害が起きる。そこで見えてくるもんがある。人との関係含めて。教養人、アタマいい奴が言う「ああやっぱりな」「言わねえこっちゃねえ」。それいいんさ。そこでどうするか。こいつが実体、実相だからだ。直面する者にとっての。

 一般論に身をゆだねる。だが各論(一人ひとりの実存、実相)にゃ、絶対足踏み入れねえ。

 この手の連中の口先同情。口先同情に尻尾振る、俺達「弱者」「反体制」。何んにも残らんかったさ。

 自分でやってみるこった。こうと感じたら。オカの上が何言ってても。痛え目にゃあうだろけどね、無駄にゃならねえさ。ていうか、無駄にゃならねえと吹っ切れるまでにゃ、けっこう時間かかったけどね。

 尻切れトンボだけど時間切れ。今朝はここまで。