カタストロフと希望

 「トバ・カタストロフ」っての、裏街道チャンネルで見た。

 七万年位前のスマトラの大々々々火山噴火で、人類は滅亡寸前に激減したとか。完全に実証された訳じゃなさそうだけど。

 この手の噴火は、100万年周期位であり得るとか。

 隕石の落下はそのうち何とか手ぇ打てるんかも知れねえが、こいつはどうだべ。地殻、畳ひっぺがすようにはがして絆創膏…なんて無理だろ。

 人類生物の存在・進化なんて、多分に偶然性の上に乗っかってるってのは、地球(宇宙)規模の環境激変の話聞けば、よく分かる気がする。

 科学者だかのアメリカの姉ちゃんは言った。「火山の冬が襲っても、一握りの人類は生き残れるかも知れません。十年分位の食料と、飢えた人々を追い払うだけの武器があればですが」。

 そこまでガツガツするこたぁねえべ。そん時ゃそん時。どうその先展開するかなんて、そん時ゃそん時なのだ。

 俺にしたところで、相当の偶然の上に今がある。小一の時、蝶々採って崖の上から真っ逆さま。こん時消えてりゃ子達もいねえ。嫁さん、もっと幸せになったかも知れねえ。

 科学ってのはいい。徹底的に解明すりゃいいのだ。惜しまず金投入して。生物人類が、隕石の藻屑から生まれたかも知れねえなんて話も。藻屑となって消えることだって、当然あるべ。

 解体と希望。こういう話聞くたびに思う。

 この種の話で解体するのは常に、因習惰性で凝固した人生、思い込み、美徳、既得権、人の淀みにへばり付くタリバン型の神話や正義、幻想なのだ。

 解体の後に何が来る? よく言う「安全安心」なんかねえさ。だがはっきり来るものはある。『パンドラの箱』の終いに登場した、停滞と幻想の破壊の彼方にやっと見え始めたヒトの可能性と希望。こいつさ。

 既得権がエサで投げかける幻想の揺り籠、幻想の母胎。中でむさぼる幻の安定。ここから放り出されたとはっきり気付く時、生きる力を人は振るい出す。一人ひとりが自分の不安定に、偶然性に肌で気付くからだ。

 自分の命、本当にありがてえと思うのは、こんな時さ。ヒトの暮らし、本当に愛しいと思うのは、こんな時さ。青い地球、宇宙から見るってのも一緒だべ。多分。