あほの小林 その2

 小林秀雄は言った。「大衆小説に最敬礼」。

 あほちゃうか。てよりもただのあほ。または詐欺師。知った顔売りの。

 ほんとかどうか知らねえが、いっ時小林は釜ヶ崎にいたと聞いたことがある。権力権威の膝元の小商人、東京人。売り方ぐらい先刻承知だべ。

 大衆持ち上げりゃ、大衆知らねえ旧武士、地主、公家、資本家、有閑階級出身のぼっちゃん達、この手の集団の文壇はびびる。見上げる読者、ぱ〜達はびびる。さすが村長さん。東京、ニッポン、村社会の。
 労働者階級、人民なんて言ってた左翼、リベラル、知識人だって同じ穴のむじなの出だからね。たぶらかされるさ。さすが小林。訳知り、人間知り、実生活知り。

 地べた這や馬鹿でも分かるのは、どこ行ったって馬鹿は居る、クズはいる、詐欺師、ぐうたらは居るっていう、当たりめえの事実。持ち上げるほどの「大衆」なんざ存在しねえし、「大衆小説」だって存在しねえ。

 言えるのは、なめたらあかんでってことぐらい。どんなもんも。ただの馬鹿と思ってたもんがそうじゃなかったなんて、そりゃ新鮮だべ。見上げ見下しの構造ん中にどっぷりと居りゃ。馬鹿殿様の、サンマは目黒に限るってのとよく似てる。

 小林ってのはこの程度。小林見上げる奴もこの程度。垂直構造の明治手製、旧武士直伝官僚主義・偏差値社会に漬かってりゃ、そりゃ新鮮さ。目黒のサンマ。

 魂あるもん書いてるか。作ってるか。体感、直観、実感、実生活に響くもん作ってるか。こいつ作る条件は、大衆、人民、貧乏暮らしの中にそりゃ多くあるさ。裸で生きるしかねえからね。裃(かみしも)捨てなきゃ絶対見えねえもんってのはある。だがそれだけ。条件あろうが無かろうが、やるのは人。一人ひとりの人。性根あるかどうかの話。大衆だからどうだなんて話じゃたいがい無くなる。やる奴ぁやる。

 大衆小説なんてのはたいがい、集団的な気分言うだけ。魂なんざ言やしねえ。言わなくったっていいさ。その方が売れる。流行はそういうもん。ケチ付ける筋はねえ。魂に触れるがごとき売り方、持ち上げ方しなきゃいいだけの話。

 大衆小説書いてても、ある時ふっと気持ち入れこんじまうもんはあるべ。漫画なんかにゃある。音楽にも。こういうもんは大事ってだけ。何やっててもある。ある奴にゃある。ジャンルの話じゃねえさ。

 大衆小説の対概念だった純文学なるもんが、なぜつまらねえか、くだらねえか。夢中になれねえから、ならねえからさ。書いてる奴が。垂直構造、垂直頭脳。こいつに嫌でも付きまとう裃、すけべ根性が邪魔して。

 ほんまもんの夢中になりゃ、体感、実感、実生活、裸で出来りゃ、何作ったって一緒。重り垂らせ、魂まで。自然科学も一緒だべ。手習いじゃねえ、自前、オリジナルの始めはここ。貧乏こくかも知れねえけど。出来合い、既成の社会、脳みそん中じゃ。大事なのは、突破の根性あるかだけ。

 
(※書いてる途中で勝手に表に出ちまった。頭に来たので、頭冷やしてから加筆訂正する)


 みゆきちゃん、登紀子ちゃん、曽野綾子のばあさんの羊頭狗肉性も言おうと思ったけど、時間切れ気分切れ。またそのうち。


(追伸)

 小林だの純文学だの古臭せえ話したが、何んにも変わっちゃいねえさ。今も。