共和制の魂 その十一   教養リベラル、娑婆リベラル

 結構長く人間やってきた俺が、娑婆で毎度出くわしたパラドックス。リベラル面ほど、本音は科挙学歴、組織の看板、地位立場。土壇場じゃ逃げる。差別する。

 単純な話、娑婆でつかんだ生き方じゃねえからさ。護られたもんに過ぎねえからさ。

 この嘘突き崩して、それでもリベラル。ぜひ出くわしてえもんだ。

 皮肉でも逆説でもねえ。本音さ、俺の。あり得ねえ話じゃねえからね。片鱗共にゃ出くわしたからね。何人も。

 リベラルってのは泥んこの娑婆、真っ当に生き抜く根本だ。強さだからね。ほんとは。たぶらかされねえで、たぶらかさねえで生きるってこと。作るってことさ。自分から。

 それにゃ真っ当な法則がいる。わが身、肌身で直観するところの。嫌でもリベラルになるさ。嘘っぱちの集団主義。この手と縁切りしなきゃ見つからねえからね。

 この国伝来教養主義朱子学科挙のセンセイがうやうやしく教えなくたってつかむさ。リベラル。真っ当な奴は。どろんこの娑婆で。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。


(付記)

 人民信じる。イコール自分信じるってことさ。ヘンな尺度でお手盛りしねえ自分。