科挙の制度と糞マスコミ

 言葉、特にしゃべり言葉は、気持ちから入りゃすんなり覚えられる。馴染む。こいつは俺自身経験したこと。

 役立たずだったのは、ガッコウ英語。中高6年。大学入れりゃ8年。糞の役にも立たなかった。読めただけ。それも一応。

 「正しいこと言う」科挙偏差値の性根がどれほど駄目か、くだらねえか、こいつに如実に表れてる。アタマん中にゃいつもセンセイ。お前は正しい、間違ってる。感性、気持ち飲み込む前に、伝える前に。

 この国の世間、とりわけ「知的」世間はまるで同類。重箱の隅の、失敗とも言えねえ失敗突付き出すセンセイ役、言いつけ役。昔よくいたね。「センセイ、○○ちゃんが…」。それがマスコミ。

 これしかねえんだもんね。職にしがみ付くレーゾンデートル

 こいつらにゃ生身の感性は恥、下賤。感性の取材、人情の取材なんかできるわけねえさ。ステレオタイプの同情以外はね。てめえらの存在根拠、絶対侵して来ねえ相手、自分より間違いなく「下」の相手だけへの。

 わかるべ? 国営放送のアナウンサーのスタンスってば。

 科挙学歴の既得権仕様、これだけが存在根拠の労働貴族・インテリ共の変わらぬ人生。どの世代も、どこ行ってもキンタロ飴。

 散々、例外無し、ヘド出るほど見てきた。