哲学の復権 ―風呂上りのひとり言―

 大げさでも、観念論でもねえさ。大真面目。風呂上り、髪乾くまでの時間潰しだけど。

 哲学って奴は存在する。人間にとって。実体として。根無し草の情況論に流されちゃいけねえ。

 情況とらえてワイワイがやがや。こいつはサラリーマンマスコミ、雇われ学者の得意技。

 哲学がねえとはよく言われることだが、正確には体がねえってこと。経験・体験の主体となるべき。感じるのは自分、実践するのは生身の自分。このための、肝心かなめの体がねえってこと。

 昔メルローポンティってフランスの哲学者が、サルトルの実存(行動したつもり、やったつもりの観念論)の化けの皮はがすために(と俺は思う)、身体図式って奴を持ち出した。

 うだうだ小難しいこと言ってて、中身はほとんど分からなかったけど、直観的にゃよく分かった。これがメルローポンティの面白さだったと俺は思ってる。

 早ええ話、体で感じろってことだべ。感じたそれを表現するってことだべ。自分流に。そう言っちゃ見も蓋もねえから、延々小難しいこと言ったんだろと俺は思ってる。

 そして俺は言う。いいんさ。見も蓋も無くて。それぞれが実践して作るだけの話なんだからね。キュウリでもトマトでもネジ釘でも機械でも理論でも歌でも詩でも文学でも。それぞれがそれぞれの人生で、並立してがんばって作りゃいいってだけの話。ついでに言や、互いをつなぐのは体感直観に根ざした共鳴共感。それで十分。

 誰にもどんなもんにも哲学は必要さ。体感実感、本能経験反映するところのね。

 社会科学、人文科学なんてのは、根無し草の情況論や観念論にちょろまかされる余地が多々ある。それでも虚心坦懐に見りゃ、ヘンてこりん、おかしさは嫌でも浮かび上がるさ。

 虚心坦懐? 自分の体感、感性、経験に素直になるってこと。真っ当な職人、機械屋、科学者なら誰でもそうしてるさ。行き着かねえもんね。そうしねえと。真っ当な答えに。

 ご都合主義じゃだめ。上っ面じゃだめ。腹ん中じゃほんとに感じてねえと。上っ面は知らぬ顔の半兵衛でも。