共和制下の学の原型 ―毎度おなじみ風呂上り、髪乾くまでのひとり言―

 部品になるな。

 トータルな自分、全存在で生きるってこと。魂無くさず生きるってこと。枝葉の仕事やらされてても。

 サラリーマン社会じゃ、やっぱり無理と俺は思ってる。実際、無理だった。

 二十代、もちっと人間練れてりゃ…。腹据わってりゃ…。面従腹背、知らぬ顔の半兵衛できりゃ…。何度か思ったことはある。でもやっぱり無理だったろ。人間出来てようが出来てまいが。

 組織は、組織人はそんなにゃ甘かねえ。立ち回りにおいて。保身において。異端異物は嗅ぎ分け、突つき出す。組織人共の暗黙の了解。

 頭ん中も実体も、まるでピラミッドの組織社会。百年一日、何一つ変わらねえ。

 北朝鮮とどこが違う。封建の村とどこが違う。科挙学歴のインテリ共。口先民主の市民共張りぼて社会の先進気取り、腐れ都会人共。

 だがしかし、おん出りゃいいってもんじゃねえ。反発反抗、批評批判なんざくだらねえ。アタマでっかち、阿呆と馬鹿、ネガとポジってだけのこと。

 腹据えてもの作った結果に、トータルな自分賭けた結果に自分委ねる。こいつが何より大事なのだ。

 半分出来たが、半分出来なかった。いや、出来たのは良くて三割程度。こいつは心残り。

 自営自立の素地が、元々俺にゃなかったってこと。

 素地ねえ人間がそれなりのもんつかみたきゃ、組織社会は二十代前半、いや十代後半位におさらばしなきゃ駄目なんじゃねえかって気が、今はする。ほんまもんの突破の嗅覚・体感身に付けるにゃ。

 大学出るなんて、その点まるで愚かだった。頭でっかちの足かせ、自分で自分に付けたようなもん。実際、絵は下手くそになった。描けなくなった。直観体感欠落しちまった。その後延々無駄な苦労。

 娑婆にも家庭家族にも、執拗にへばり付く百年来のピラミッド。人の能動打ち砕く朱子学由来の定型、ポンチ絵、据えもの斬り社会。

 知識知力は必要だ。だがこいつ真っ当に吸収するための仕組みが、この国と社会にゃ存在しねえ。仕切り屋共(封建社会由来の支配者共)が勝手に作ったガッコウ制度=定型人間製造機。パワーと知恵の取得じゃねえ、資格取得だけの科挙偏差値制度。

 既得権既得権と言うが、こいつに載っかってりゃ、嫌でも既得権にしがみ付くようになるさ。生身で勝負の娑婆じゃ、生きてけっこねえんだもんね。

 それでもやる奴ぁやる。やるしかねえさ。ハンディ背負っても。生きてるのは自分、生きるのは自分だからね。

 願わくは、能動・主体の人生が、時折渇きを癒せる知識の水飲み場程度は必要。娑婆の人間にほんとに必要な活学問の場が。汗流す者達のヒント手がかりとしての知恵知識、こいつがほんとにつかめる場が。

 こいつが共和制下の教育制度、知力涵養の仕組みだろうと俺は思ってる。どっち向いてもサラリーマン社会。こいつに耐えられる教員、学者なんざ、今は絶無だが。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。