主体の人生、活学問
昨日国営の裏街道チャンネル、いずれ消えるとかのハイビジョンチャンネルでセザンヌの話やってた。ハイビジョンなんて、うちにゃねえけど。
ゴッホの話なんか読んでも思ったが、娑婆って奴はどこも変わらねえ。ヨーロッパだろうがアジア、アメリカだろうが。
異端は、異端と見えるもんは排除に動く。本能だべ。人間の。
結論は一つしかねえなと毎度思う。
腹決められるかどうか。人生貫徹の。
こいつが主体の人生と、付和雷同、他人に石投げ、根無し草人生の境界ってのは、いつの世も変わらねえ。
ゴッホもセザンヌなんかも、ずい分ぎくしゃくした人生だった。手本、定型捨ててかかる突破の人生だから、仕方ねえってば仕方ねえ。誰が他人を笑えるか。
人生振り返って思う。ぎくしゃくは、やっぱり無駄だ。きくしゃくでこぼこは効率悪りいに決まってる。人でも機械でも。人間、五十年六十年あっという間。もったいねえなとはっきりと思う。今。
この無駄を無駄と腹の底から実感できりゃ、ずい分容易になる気がする。自前の人生貫徹。
頭じゃ誰でも分かってること。分かったつもりのこと。実感するのが大事なのだ。自分の体で実際に。
お教え乞うんじゃねえ。体験しろ。実行しろ。必死こいて。日常瑣末の娑婆ん中で―、とはこのこと。
自分でつかまなきゃね。うんちく、批評、説教のたぐいじゃねえところで。
人のお墨付き当てこんだ、虚構ん中の「自立」じゃ駄目ってこと。学校・企業の先生が、先生に仕込まれた優等生が駄目ってのはこのこと。
活学問ってのはこのこと。仕込むんじゃねえ。体で背中で伝える。共鳴共感で伝える。感じるだけのもん持つ相手に。基本的にゃ誰でも持ってるさ。
こいつが俺の言う共和制下の学。(学って言い方自体ヘンなんだけどね。)
なんてこたぁねえ。いつの世も、親が子にしてやらなきゃいけねえこと。一代じゃできんかった。
こいつがほんとの実学ってやつ。読み書き、そろばんだけじゃねえさ。
そして話は戻る。主体は自分。自分の人生の主は自分。この自覚が、実践が何より大事なのだ。どんなぎくしゃく人生でも。
始めるのは自分なのだ。環境なんか待ってりゃ、人生の日は間違いなく暮れちまう。
共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。