思い上がりの構造 その一

 歴史は百数十年とかの田舎新聞の記者共見て、毎度感じることがある。

 例外無く思い上がりってこと。

 何かにつけて関わった奴は、思い出すだけで7人。入社したらまずそれ叩き込まれるんじゃねえかってぐらい、例外は居なかった。

 自分を何様と単純に信じて疑わねえ。自分より下と見る者は絶対に下。下じゃなきゃいけねえ。

 裏返しゃ、上と見える者は絶対に上。上として扱う。それは単純に紙面に反映する。

 これは田舎新聞の話だが、この手の精神構造は日本全国津々浦々、例外無えと俺は思ってる。井の中の蛙、コップの中の何んとやらに典型的に表れてるってだけのこと。

 十数年前、田舎新聞受けて落っこって田舎出版にいる奴と関わったことがある。こいつがまるで同じ精神構造だったのは、驚くにゃ当たらねえ。この手の精神、脳みそを量産するシステムが百数十年来、この国にゃデンと居座り続けているからだ。そこで純粋培養された僕ちゃん(この頃じゃ嬢ちゃんも多いね)が、勘違い構造で成り立つこの手の商売に吸い寄せられるってだけの話。

 この手合い見てつい思い出しちまうのは、四十年前に関わった活動家なるやから。口先じゃ解放だのなんだの言うが、頭ん中は凝り固まってるだけ。信じて疑わねえヒエラルキーの性根。

(※時間切れ。あんまり馬鹿ばかしい話だが、何んとか続きは書いてみる。馬鹿ばかしさは馬鹿ばかしさではっきりさせて、地獄の底に放逐しなきゃ、この手の馬鹿馬鹿しさは永久に続く。泣き見るのは、真っ当にもの作る人民なのだ。)