思い上がりの構造 その二  自前の経験、虚構の経験

 経験が大事なんて言うと、たいがい爺いの言うこと聞けみたいな話と勘違いされるが、とんでもねえとはこのこと。

 何の経験も積まねえまま人生上がった面して、のうのうと生きてるクソ爺いクソ婆あはこの世にゃわんさ。

 この手のクズほど説教したがる。「上→下」の説教構造で成り立つ縦社会の延長上にわが身置いたまんま棺おけに足突っ込んだ方が、幸せだからね。本人的にゃ。わが身の実相、人生の実相(ほんまもんの経験)になんか直面しねえで。

 人生六十年やってきて、はっきりと分かることがある。経験の重たさ、経験のもたらす真実、それに根ざした人間様の実存。これは馬齢を重ねるかどうかなんてのと、本質的にゃ何んの関係もねえってこと。そんじょそこらの爺い婆あなんかにゃはるかに勝る経験を持つ十代二十代は当然居る。幼な子にだって居る。

 経験ってもんの本質を思や、すぐに分かる話だ。自前の経験、自分にとっての経験ってのは、お教え乞うことや先例踏襲、出来合い既成の観念、色眼鏡に当てはめてもの見ること、立ち回ることとは根本的に別もん。

 経験は、地上の生物人類が営々養ってきた真っ当な感性、体感によって体に吸い込まれて、初めて経験になるってこと。

 俗に少年の心なんて言うことがあるが、八十だろうが九十だろうが少年の心なんてのは、この意味じゃ当たり前なのだ。真っ当な職人、労働者、百姓、芸術家、開発者、科学者のたぐいが少年の心を持つなんて、当たり前のこんこんちき。

 今んなりゃよく分かる。口先先進(分かったつもり、行動したつもり)のサルトルに異を唱えたメルロー・ポンティが、経験・感性と身体の構造の関係に延々こだわったってのが。

 これはインテリ共の世界の話だが、こういう苦闘はあんがいどこでもやってる。真っ当な奴なら。真っ当に生きようと思う奴なら。

 一見無駄な努力に見えることはあるが(在りものに食い付いた方がよっぽど楽だからね)、一生かけても、一生棒に振っても価値はある。真っ当な人生のために。真っ当な次代のために。

 飯の食い上げになるから今朝はここまで。生物人類が営々積み重ねた真っ当な感性、真っ当な体感。こいつに根ざそうとちっとでも思や、既得権、虚構の「経験」なんかとつるんで説教、ふんぞり返りの神官、提灯持ち、糞マスコミ、TV・新聞屋のたぐいになんか死んでもならねえさ。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。


(付記)

 山崎ハコは真っ当な歌い手だ。

 http://www.youtube.com/watch?v=ORIL_VOH-lM