人の意識の多層性

 もっともらしい題名付けたけど、早い話が人の気持ちは色んな思いで成り立つってこと。

 その昔三島由紀夫は死ぬ少し前、餓鬼の頃に刷り込まれた意識(本人的にゃ感性と言ったんかな)は変えられないと言ってた。

 へえ、そんなもんかと当時思った記憶がある。

 若い頃は、それなりの生き方を持つとつい見ちまう年長者の言は、鵜呑みとまではいかねえにしても、そんなもんかとつい思っちまうことはある。

 歳食っていいのは、この手の思い入れが薄れること。

 ついでに言や、歳食わなくたって人への勝手な思い込みのたぐいを免れる奴はいると思う。会ったことはついぞ無かったけど。

 自分を持つってのは、自在な感性とイコール。観念・刷り込み持ち出して、持ち上げたりこき下ろしたり。こいつを免れてる奴。わが身と社会解放の基本だべ。

 それは言葉で言や、リベラルっ奴。リベラルな奴が実はまるでリベラルじゃ無かった場面にゃ、六十年の人生で嫌ってほど出くわした。

 俺(私)はリベラル。そう思い込んでる奴の腹ん中がテコでも動かねえ偏見に満ちてるってのは、思や当たり前の話。観念・言葉で思い込んでるんだもんね。

 言葉で人を解釈する(切り捨てる)奴とは、話したって無駄。ああ知ってる、そういうことねで万事おしまい。実体験もへったくれも無くなる。

 話は戻って、人の意識の多層性。

 人間誰しもフラッシュバック的なもんに落ち込むことはある。昔の馬鹿な自分が突如よみがえる。くたびれ果てた時なんか要注意。

 うまいもん食って寝りゃいいだけのもんを、妙に真面目に考えこむと首吊ったりちょん斬ったりする。運良く生き残りゃ、あほなことしちまったなと思う日も来るけど、死んじゃえば万事休す。

 うちの嫁さんは雪国の貧乏農家の出。人生生き抜くリアリティは俺の数倍。でも、ほんとつまらねえもん見上げちまうことは時としてある。

 こいつは明らかな矛盾だが、そんなもんだべ。俺にしても多分誰にしても。意識は多層。時と場合によっちゃ、ヘンなもんが突如顔出すことはある。

 うまいもん食ってよく寝て、心自在に保つこと。そうすりゃ感性は、またゴムまりに。

 ゴムまりが大事なのだ。しゃきっとせんかいと自分に言って、今朝はお終い。