島が好き? 海が好き?

 感性を海に例えりゃ、言葉や観念、知のたぐいは大海に浮かぶ島だ。

 この関係は絶対だ。こいつを逆立させちゃ一日だって、いや、10分だって暮らせないもんね。真っ当な人間様は。

 この世にゃ、島が海に君臨してると思い込んでる馬鹿はごまんといる。虚構があるからね。社会と人の寄生虫、宦官共飼っとくための。

 虚構の島のシンボル挙げりゃ、それは東京。人の自然装う権威(えせの海)とつるんだ明治手製の官僚制、宦官共の街。百数十年来垂れ流してきた害毒=ニンゲン様欠いた上っ面の先進性。こいつ見りゃ、よく分かるべ。

 知はヒントにゃなるさ。海見るためのね。海持つ人間が生んだもんなら。古今伝授の言葉のたぐいこねくった「知」じゃ、駄目さ。

 学問、知識は大事さ。学問ってのは本来、自分の人生切り開くためのもん。そういう知のたぐいにゃ、それなりに出くわした記憶はある。学生の頃。

 なぜか不思議なことに、その手の知は単位にゃまるでならなかった。ガッコウ・大学の。深夜の読書、裏稼業でせっせと吸い込んだだけ。

 理系なんてのは案外、真っ当な知が転がってんじゃないかと思ったこともあるけど、仕組みそのものが島の今のダイガク・センセイレベルじゃ、やっぱ無理だべ。真っ当な知も、古今伝授・上意下達の構成要素に早変わり。自前の感性、発想に根ざさなくなっちまうってこと。

 「辛抱」して残ってたって、身も心も小間使いだべ。センセイ・教授の。体感・発想は枯渇し腐る。

 トーダイは永遠に不滅って事例(人間潰し)は、ついこの間も身近で拝見。さっさと辞めるに限るさ。ニンゲン様貫きたきゃ。損得打算以前のもん。

 トーキョー人の話の間口の狭さ。経験実体験、体感肉体そのものがねえってこと。ていうか、海に出るのが怖いってお話。マスゴミなんかいい例だべ。想像力や新発想なんざ、湧くわきゃねえさ。

 海見る力、イコール自分感じる力。自分が身に付けろって話さ。先ずは。いつの時代も。人生終わっちまうよ。仕組み到来指くわえて待ってた日にゃ。

 いつでもどこでも、誰にも出来る話だしね。


 蛇足で言や、社会の変革は大事だ。だが社会や政治の仕組みってやつは、知と同じく島のたぐいに過ぎねえ。変わって当然のもんは変わるべしだが、過大な期待はナンセンス。そっちばかりに目が行くと、肝心かなめの自分を見失うからね。自分の主体性を。海を。歴史見ても、人民の名のもとの暴虐なんざごまん。体よくやられるだけさ。理念や仕組みがどう変わっても。



(余計なひとり言)

 「日本の男は徴兵して軍隊に入れろ」と、どっかの週刊誌に。昔懐かし説教師のうんこ婆あ。てめえが勝手に行って来な。実際にゃ飯炊き一つ出来ねえべ。



 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。