日なたの縁側

 「あなたは弱い人の側にばかり気持ちを入れるのね。でもそうした人達だってずるさや汚さを…」

 あるブログの記述。「いや、それは違う…」。問われた人物(筆者)はこう言って口ごもる。

 俺も嫁さんに何度か同じことを言われた。「あなたって下の人にばかり…」。いや、それは違う…。俺も口ごもった。口ごもっただけじゃない、猛烈な夫婦喧嘩になったこともある。

 口ごもる気持ちは俺には分かる。俺について。図星の所はあった。

 だがそれだけじゃない。それとは別の思い。そこに起点、本質はあった―と言い切ると奇麗事だ。もう少し正確に言えば、その種の感情ともやもやと絡み付いた、ある時期まで多分不可分だった思い。そういうものが俺にはあった。それをきっちりと抽出するのが人生の作業だった気がする。「上」や「下」の清算も含めて。

 今は抽出? 清算? 意識ってやつはまだらだ。ヘンなもの、くだらねえものが不意に蘇ることはある。あぶり出しのように。そういう心の置き方もできるようになったというぐらい。

 もやもやと不可分の意識を抱えた二十代初めの頃。その頃も霧の晴れる日はあった。人生経験、心の作業なんか無くても。

 それは俺よりずっと田舎者の嫁さん(当時はまだ嫁さんじゃなかった)と出会った頃。東京・南高円寺あたりだったか。冬の日、散歩していた俺は一緒に歩く嫁さんに、日向ぼっこの縁側の匂いを感じた。言葉のやり取りの中で。「この子を裏切ったら俺はクズ…」。

 それは俺の勝手な思いだった。だがこの思いが俺の側で、俺と嫁さんをつなぎ止めたと思っている。今に至るまで。

 日向ぼっこの女は、俺とはずい分違った夢も描いていた。水と油。それは今もある。

 だが日向ぼっこ、日だまり。嫁さんの居場所は、当時も今もそこ。色んなものを窓にもたれて眺めることはあっても。

 日向の縁側。大事なものはそこに転がっている。俺がそう腹に据えるのはずい分後のことだった。貧乏暮らしの末の。


(付記)

 貧乏暮らしと日向の縁側。似合うようで似合わない。実際、あれほど嫁さんが欲しがった縁側も庭の柿の木も、持てるはずもなかった。結婚は経済生活。そうフランス人は割り切っているとどっかに書いてあったが(ほんとかどうか知らないが)、その要素は濃い。でも日向の縁側。せっせと働くだけ。せめて日だまりで、いっ時心を洗うぐらいの時間を作るために。