外は暗がり。マイナス何度かの中、ストレッチをした。

 今日一日、踏ん張る。それあるのみ。

 怒らず、自分を保って。

 以下も、あるブログに送ったコメントの続編。


 劣化に関する一体験(二)
 三十数年前のニュースカメラマン時代、私のいた映像部(カメラマン部屋)は「親」「下請け」「下請け・Ⅱ」の3社とアルバイト達でごった返していました。ボーナスが出るたびに嫌な思いをしたものです。
 それでも大阪は実質主義の土地柄。当時はそれぞれが技量と仕事で関わっていたため、現場では立場や待遇の違いで嫌な思いをすることはありませんでした。(「下」の人々はずい分我慢もしたのだろうと思います)。現業仕事の嫌な思いはむしろ、前にも記した通り、局の同じ社員達からでした。
 7年いた所を辞める時、系列新聞天下りの局長は、あいさつした私に「去るものは追わずだ」と返しました。無能で厄介払いだったにしても、職場仲間への仁義と思い、最後の一日まで働いた者に言う言葉かと思い、「社会の縮図の職場にいたので、今後どこに行っても困りません」と投げ返し、部屋を出たものです。
 せりふはその後、ものの見事に的中。食い詰めた私は何年か、田舎の新設局の孫請けフリーターとして糊口をしのぐことになりました。その田舎は東京の版図。局も下請け孫請けも、ずい分体質が違いました。違いを一口に言えば、ヒエラルキーの構図をそのまま受け入れる(鵜呑みにする)かどうか。大阪は一面東京圏以上の差別社会ですが、構図は構図、自分は自分、これがはっきりした社会。現場の人の関係は仕事上の工夫も含め、それぞれが能動的である限りは成り立っていました。(今はずい分変わったと聞きます)。
 放送という業種で言えば、東京圏はヒエラルキー・既得権が前提(鵜呑み)の社会。人の間で意気に感じるたぐいの能動性など生まれる余地はなく、筋を通すのたぐいはただの馬鹿。となれば構図、構造を嗅ぎ分けて泳ぐ以外、浮かぶ瀬はなくなるように思います。東京の局もいっ時垣間見たことがありますが、言葉はリベラルという人々の集まりという印象でした。飲みに誘ってくれたカメラマン達にはなぜかまだ、大阪と同じ人の匂いを感じたものです。私と同じ田舎者の土建屋宰相がお縄になる頃の話です。「コネ、ツテ、閨閥抜きの男がお縄になるのは不公平」。そう社報なるものに書いて、ちんぴらカメラマンと馬鹿にされたのも、今は懐かしい浪花の思い出です。
場違い的余談、失礼しました。マスコミ論の学生さん達も、こういう所(視点)から入るのも面白いと思います。