棄てる
文は不思議だ。書く中で自分自身が納得するプロセス。これが生じる。
ある人とのやり取りの中、「女の生命力。これに男が近づくのは、色々なものを棄てることで。この頃それを感じる」と書いた。
過去にも、これに類したことは書いた。子を産み育てる女の生命力。無が生み出す男の生命力と。
俺自身すっと気持ちに入るのは、やりとりの中の文だった。相手が素直。または素直に生きようと努める。そう俺が感じたからだろう。
思想はひとり言でいいと思う。自分の表現なのだ。
ひとり言を言い合う仲。これが成り立つならば、何よりなのだろう。
それによって自分を成長、というより掘り下げられる。これが何よりなのだ。互いにそうなれば。
縦軸のもの言いを棄てる。並立で語る。自分を軸に。潜在意識の部分まで掘り下げて。
そうなれば自分を変えられる。内から。
言葉には、それほど多くは望めない。自分の掘り下げ、変革。それは日常の中の腹を据えた(潜在意識の部分にまで棹さした)行動が軸だからだ。
そうした行為と並行しての言葉。そして願わくはやり取り。これが伴えばいい、ということなのだろう。
人の並立の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。
(付記)
コメント欄等を開いてみました。