骨の髄からの後悔
自分の生活、嫁さんとの生活を損なわない範囲で書く。
これは前のものを止め、新たにこの日記を始めた時からの基本だ。
書くこと、作ることに暮らしの足をすくわれる。散々すくわれ続けてきた俺だが、本当に馬鹿げたことと骨の髄から後悔している。
俺は、社会的な幻想の尻を追いかけてものを作ったことは無かった。あまりに苦しいもの作りの途中で、この種のすけべ根性を含む雑念が浮かぶことはあった。だがそれをベースに動いたこと、それによって作るものをねじ曲げたことは、学生という虚妄の季節を含めてただの一度も無かった。今の貧乏暮らしは、そうした人生の「報い」でもあると思っている。
「あんたは自負心の塊だ」。二十数年前、当時はもう年収一千万円近くの者に、一方的にかけて来た電話の向こうでこう言われたことがある。子供二人を抱え、夫婦喧嘩が絶えない、生活保護を受けた方がましだという暮らしの中で。
生き方や心の中の何かを糊塗し、人に石を投げずには居られない者達。この種の者達に対しては、俺は胸を張って何度でも言う。それで結構だと。
骨の髄からの後悔。それは自分に対してであり、貧乏暮らしに陥ってからの三十一年間、俺と暮らしをともにして来た妻に対して、二人の子供たちに対してなのだ。
自分が感じた「これ」というもの。それを本気で追いかけ始めれば、一等くじを引き当てる以上の余程の幸運が無い限り、嫌でも困窮が背後から襟首をつかんで来ると俺は思っている。「今有るもの」を前提とした等価交換の経済社会の中では。これは時代がどう転んだところで変わらないと思っている。
ならば結婚なんかしなければいい。困窮等々は、自分だけで背負えばいいのだから。
これは妻にも言われた。自分でも考えた。何度も。
だが俺は今はっきりと思う。学生時代の予感と今現在の実感に根ざして。人間に本当に根を置いたもの。これを本気で作ろう(見つけよう)と思うならば、人を愛し、子を産み育てるこのプロセスは絶対に避けて通れないと。
人はどのような人生も選べる。だがどのような人生も考え方も感性も、その結晶としての作品等々も、愛情とそれに根ざした人の再生産という、人が人として続く限り永劫不変のプロセスの内部の出来事なのだ。
これは俺の人生の根底における変わらぬ実感ということ。生き方を強要する者には、糞をかけて構わない。自分の尻は自分でぬぐう。この腹づもりを持って。
自分の尻は自分でぬぐう。俺の中でこの決意が腹づもりが本当に根付いていたならば、嫁さんとは喧嘩はしなかったろう。怒りを憎悪を陰鬱な気分を、子供たちに見せ付けなかったろう。でなければ俺の人生は選択は、手前勝手な観念と癒着した情念の範囲を出なかったことになる。妻や子達をだしにしただけの。
この克服。真っ当な克服。どんなに遅きに失したとしても。これが俺の一生の課題だと思っている。