教養主義じゃ駄目、空っぽじゃ駄目

 人は教養主義では駄目だ。

 書物のたぐいの知識では駄目ということ。

 書物が駄目というのではない。書物という他人とは、体に備わる本能や経験が鍛えた感性、嗅覚をベースに関わらないとうまく行かない。

 でないと権威や一般論を鵜呑みにしたり、他人の経験をわが事のごとく勘違いする愚を犯す。

 教養主義を脱出するのは、実は難儀だ。

 自分を生きてみないと分からないからだ。その種の空っぽは。無意味と有害は。

 自分を生きる。痛い目に遭うということ。ストレートに、体当たりで生きて。虚構・フィクションでしかない腐った娑婆を。

 痛い目に、嫌な目に遭って自分を見つめる。再発見する。何が自分か、何が大事か。教養主義(口先)の虚構は、その時嫌でもあぶり出る。

 「それでも地球は回っている」。散々の人生の中で、それでもまだそう思うならば、あんたは脱出したということ。腐った社会を。虚構とのなれ合いを。

 生の事実を、真実を何が何でも生きろとは言わない。

 嘘っぱちの社会では、そんなことをしたら一年と持たずに潰れる、潰されるだろう。霞を食って生きられれば別だが。

 虚構と何食わぬ顔で付き合うこともある。踏絵を踏むこともある。人は生き抜こうと思えば。人ひとり生きることの本当の真実は、その中でしかつかめない。生き抜く中でしか。死んでは駄目、自分を放り出しては駄目なのだ。

 教養主義(きれいごと)の首を本当に絞め殺すのは、この時なのだ。

 教養主義は、一般論的正義は、虚構のフォーマットの上で踊りを踊る。霞食って生きる仙人のごとく。出来っこない正しさを振りかざして。

 虚構の蛇口をひねって、こっそりと給金を得る腐れ仙人ども。教養主義が必ず体制とつるむのは、このためだ。右だろうが左だろうが。

 大丈夫。わかる奴はわかるさ。仕方なしに虚構と付き合っても。踏絵踏んでも。あんたが空っぽじゃなければ。生き抜くに必死ならば。