維新(ファッショ)じゃない、革命が必要だ

 橋下が当選したら、馬鹿な政治屋もあほなマスゴミも皆浮足立った。

 というより迎合を始めた。

 なぜか?

 自分を持たないクズ達が、上っ面の改革に飛びついたということ。

 なんでもいい。今の銭金を確保できりゃ。これが本音。

 自分という能動的な主体に根ざした所からものを作ろう、考えようという意志も姿勢も皆無だからだ。

 実存(可能性を拓くものとしての人間)が存在(置き物・在りもの)に先立つのは、自由と民主制の社会の根幹、イロハだ。サルトルなんかに言われなくても。

 ここに立つことだ。

 橋下が言ってるのは、、人間は黙って働くアリに、在りものになれということ。支配者が組み立て易いように。人を黙らす神棚を背に。

 そりゃ楽だ。使う側は。「維新」「改革」はいっ時は進むだろう。ファシズム(侵略性と魂の監獄)と引き換えに。ヒトラーアウトバーン程度は作った。

 この国、この社会には革命が必要だ。

 一向に構わねえ。18世紀の真似事でも。人間の根底に根を置くものなら。考える主体、感じる主体、生きる主体、創造の主体としての人間に、一人ひとりの人間達に根を置くものなら。いっ時しんどくたって、それがどうした。

 ますます進む家畜社会は、ぶっ壊さなきゃ駄目なのだ。人間に根ざした新たな制度によって。


 共鳴共感、人は並立(人はそれぞれ造物主)の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。