孤独はデラシネでは無い、またはデラシネは根無し草では無い
デラシネという言葉が、久しぶりに目に飛び込んだ。
孤独(人間は独り)はしかし、デラシネでは無い。
それはワームホールのようなものだ。本当の意味の「全体」に通じるところの。
全体。それは個人を飲み込んでしまう、もやもやとした情緒で成る世間や国家、民族のたぐいでは無い。
地球上の生物が何億年も積み重ねて来た、生存のための事実。生きるための真実だ。宇宙の摂理と言ったっていい。
俺は、透徹した理性は透徹した感性とイコールだと思っている。例えばガリレオ、コペルニクス。
自分という存在の根に、孤独の底に真理の深井戸を見つける。真っ当な科学者や思想家は―いや、その種の偉いさん達のことはいい。どこにも埋もれ生きている真っ当な生活者達は、このことを肌で知っている。
人の愛情は、それが生む絆のたぐいは、中途半端な全体には決してすがらない自分というダイナモから生まれるのだ。