グローバリズムとナショナリズムと共和のインターナショナリズム

 この頃、反ユダヤ的な書き込みを見かけることがある。反グローバリズムと共に。

 世界を股にかけるユダヤ資本が、グローバリズムに向かうのは当然だ。多国籍になりつつある日本企業が、TPPを推進したがるように。

 資本家が政治と癒着する。政治を使って彼らの市場の拡大を画策する。それはどこも同じだ。アメリカ資本と東洋の島国資本等々では、スケールに違いがあるだけ。

 エルサレム中心のユダヤの思想がどうのWASPの思想がどうのというが、思想や宗教なんてものは経済原理・資本の原理を包み込むオブラートのようなもの。この頃流行るナショナリズムも同じだ。世界制覇の資本の欲望と、乗り遅れた者や因習とつるむ既得権者等々の欲望。

 これを見抜かないと、まったく不必要に人を憎むようになる。民族だの国家だの宗教だので。体よく利用されるということ。

 この種の観念の逆立ちには、死んでも陥らなねえことが大事だ。

 かつて俺はイスラエルへ行き、かの国のエリート達の優越意識に辟易としたことがある。それはパレスチナ・アラブの民衆を見下す彼らの意識構造と表裏をなしていると感じたものだ。

 だがそれは英語圏のエリートや立ち回りに長けた中国官僚、エリート面・上昇志向の東京人に田舎者の俺が感じたものとまるで同質のものだったと思っている。

 一方で、イスラエルだろうがアラブだろうが中国だろうが、いまだ半裸のニューギニア人だろうが、そこに暮らす人々の感性はまるで変わらなかったとはっきりと思う。嫁さんや子供達と長年生きた俺の感性と。

 当たり前なのだ。人は変わるわけはない。子を産み育て死んでいく、人間達の人生・感性は。

 俺のインターナショナリズムの根っこは、ここにあると思っている。人間の当たり前の生活。当たり前の汗。 

 頭でっかち、刷り込みや観念の罠を排した共和制。これが俺の政治思想だ。非政治(非統治)からの。