やさしい、気の弱い、頭の弱い、打算・算盤ずく、善意が売りの傲慢なファシズム

 嫁さんがかまぼこを持って帰った。低賃金、実質パートの仕事先から。

 東北支援。労組の組合費で買いこんだものを分けてもらったとか。

 産地は宮城の漁港。原料はぐち、たらなどと書いてある。

 「みんなで食べたよ。私も食べた」。そう言って、合成紙に包んだ5、6個をバッグから取り出した。

 俺も一個食って言った。「孫には絶対にやらんでね」。「娘(母親)にもやらない」と嫁さん。「でも私たちはいいよね。三十年先の癌なんて。もう生きてるかも分からないし」。

 それは違う。癌だけじゃないし、三十年先なんて甘いもんじゃない…。そう思ったが、ここで言い合ってもと、黙った。

 残りは捨てた方がいい。そうも思ったが、長年貧乏暮らしをして来た嫁さんとこの手のやり取りをすると、喧嘩になることがある。なのでこの程度は我慢することにした。

 「とりあえず冷蔵庫に。そう言う俺に嫁さんは言った。「ほかに一箱あるよ。外に置いてあるの。冷気にさらして」。

 先日ブログで、生産地の漁港近くに行った者の手記を読んだ。そこは復旧・後片付けで、放射能なんて気にしている暇がないとか。かの地への思い入れと、「過度」に気にする者への批判も込めた文だった。

 そこから俺が読み取ったのは、やばいということ。そんな場所の食い物は。

 インターネットの良さは、書き手の感情や思い思惑に左右されず、こちらなりのスタンスで意味を読み取れる点だ。(当たり前だが俺の文も例外ではない)。

 一箱分のかまぼこ。どうしたものか。自分が食いたくないものは、他人に配るわけにもいかず。だが俺の知識や思いをどう披露したところで、嫁さんは捨てないだろう。「絶対に危険」ではない、これだけの数の品を。絶対に危険ではないが、これだけの数だから捨てなきゃ―とはならないのだ。

 そういえば先日は俺自身、フクシマの生産物の販売を手伝ってという依頼を辛うじて逃げた。断ったのではなく。適当な理由をこじつけて。

 俺もわが家もこんなざま。やさしい、気の弱い、頭の弱い、打算・算盤ずく、善意が売りの傲慢なファシズムは随所で徘徊しはじめていると俺は思ってる。情けなさと共に。