文は力だ
文は力だ。力のある文を書け。
ものを書く者はこれじゃなきゃいけねえと、俺は思っている。
力とは何か? 一口に言って人を動かす力だ。奮い立たせる力と言ってもいい。
俺は多少ヘンな直し方をされても、編集的な立場の者がこの種の思いで直したものは、文句は付けねえことにしている。義理人情というやつ。俺なりの。歳食ったからできるのかもしれねえ。前なら噛みつき、潰していた。互いの関係を。
力のある文はどうやって書くか? それは極めて単純、簡単だ。自分の人生、感性に根ざして書くこと。
本当に大変なのは、自前の人生とは何んなのか、自前の感性とは何んなのかを、自分の体で、手と足と頭で探り当てることだ。それを死ぬまで続けることだ。
お墨付き、科挙・学歴に載るインテリ達は、100%これを避ける。載ってる基盤そのものを、ぶち壊さないと駄目だからだ。
書いてくれてありがとうと言われる。買ってくれる者が出る。
この歳になって、この種のことにようやく出くわすようになった。
こんなことを言いたくなるのは、首は近けえなと感じるから。今の仕事も。
雇われ・請け負いの末端で働く俺が生み出す結果なんて、総体から見れば微々たるものだ。
だが俺は、この種のミクロ(芽)を見落とす組織に未来は無いと思っている。こいつも俺の経験から。
仕事探しの日々はまたぞろ近けえぜと、嗅覚はささやく。こいつがいるから俺は、この歳まで生きてきた。嫁さん子供を抱えながら―というよりも嫁さん子供に救われながら。無一物、孤独の日々を。
子供二人は自立した。後はてめえと嫁さんの食い扶持だけ。これほど気楽なことは無い。転落だけのこの時代、ろくな仕事が転がってなくても。
(付記)
村下孝蔵は「歌は力だ」をバカになって実践した男だ。