直感・直観、労働疎外と共同主観(内向きの損得打算)

 原発事故以来、人間の動物的カン―これを信じて行動するという言が目立つ。いいことだと俺は思う。

 この国の「社会人」の暗黙の前提は、共同主観・共同幻想への従順だった。共同体や組織内の損得打算への追従。

 独自のもの、新しいものを打ち出そうと思えば、嫌でもこれと衝突するしか無いのだが、直感・直観、動物的カンがつかんだ疑問(可能性の萌芽)を、お身内世界の損得打算と天秤にかけて目をつむる、見て見ぬ振りをする。これがこの国の社会人の普遍的な行動基準だった。儒学朱子学の金縛りに遭った武士(封建サラリーマン)の時代から。

 青年マルクスが優れていたのは、直感・直観、動物的カンを働かせて産み出すもの作りを、労働としてとらえた点にある。みずから感じ考えて、汗して生み出す有用労働。虚構(搾取の知恵)とつるまぬ世界ならば、どこにも普通に転がっている当たり前の仕事。

 これを感じ取る力が若い彼に無ければ、労働疎外という言葉は生み出せなかったろう。

 若きマルクスの才。それは普通の、真っ当な若者ならば大概抱く直感・直観を元に、共同主観や幻想と馴れ合うことなく理論を組み立てた点だ。職人、百姓、町工場の親父等々、どこにも転がっている大人達が普通にやっていることを社会科学の分野でやったということ。

 労働と労働疎外。この認識(直観)は重要だ。これが分からないと、思想の自由の基本原理―個人は国家(組織的なもの)に先立つ―がまるで分からぬ者になる。この国のどこにも転がっている組織人達のように。