思想や論理や理念の力

 次の一文は「低気温のエクスタシー」というブログからの孫引き(御容赦)

(※以下引用)

「人は利害や感情や金で動く」

兵頭正俊(老紳士)
https://twitter.com/#!/hyodo_masatoshi/status/160679305142206464
この物の見方を、若い皆さん方にはぜひ身に着けてほしい。わたしも若いころは、思想や論理や理念で人は動くと思っていた。しかし、これは大きな間違いだった。人は利害や好き嫌いや金で動く。例外的な人もいるけれど、多くの人はそうだ。消費税増税原発もTPPも、賛成派の根にあるのは金なのだ。

(※以上)

 この考えは全く正しいが、付記しておいた方がいいことがある。

 思想や論理や理念というのは、まずもって自分をコントロールするものなのだ。自分の根幹を。

 当たり前だが、それは自分のものであって、人のものでは無い。

 どんなに真理と思うものでも、それをそのまま人に言えば、相手は理解できないか反発するかになる。他人はもとより、嫁さんやわが子さえも。(この種の愚は俺自身散々繰り返した。)

 相手が相手のリズムやペース、生き方で―要するに主体的に自分の中に取り込もうとする時のみ、それは「理解」される。それ以外は、良くてせいぜい「はあそうですね」の社交辞令にしかならない。そして次の日も話とは何の脈絡も無く、相手は相手のペースで動く。彼自身の損得打算利害と感情で。

 兵頭という人自身、思想や論理や理念が無意味とは思っていないだろう。無意味となるのは、思想自体が無意味な代物でなければ、伝え方に問題があるからだと俺は思っている。

 それは一口に言えば、相手と自分の間合い(関係のあり方)だ。

 例えば説教的な意識がこちらにあれば、相手はその時点で心を閉ざす。すでにそこには、序列という社会的フィクションが働いているからだ。その種のフィクションが有効な世界(言い手・聞き手の共同幻想の世界)においてのみ、伝わった気分になるだけなのだ。

 どんなに自由を説いていても、説教好きは序列(支配)を好む―。このことは幼児でさえ直覚する。

 「共和制は人の並立」は、このことなのだ。我田引水だが。

 人は並立といくら思っても、相手が序列を信じて疑わない場合や序列で事を処理する場合は、こちらの真意は伝わらない。世の中にはまた、良心(主体的な心の摂理)など屁とも思わず、ご都合主義や社会的フィクションに身を委ねる者もいる。その意味で、思想や論理や理念なんてのは弱いものなのだ。

 ここで話は最初に戻る。思想や論理や理念は、まずもって自分のためのもの。人に伝わるかどうかなんて、余禄程度のものというのが実際に近いだろう。

 子は親の言葉じゃない、背中を見て育つ。これが思想の無意味と意味を端的に表していると、俺は思っている。

 思想は無意味では無い。説教じゃ無い表現も、無意味では無い。

 微々たる力だとしても、人と人の間合いには、いわば必須の微量元素だと俺は思っている。

 でなけりゃ、付き合う意味なんてほとんど無くなる。損得打算、金以外は。