並立の仕組みは要る

 商業高や農業、工業、普通高の生徒や教員と関わる仕事が、何度かあった。

 思うのは、人間一長一短、人それぞれ。当たりめえだが。


 人間ってのは、ある時火が付くことがある。情熱情念に。

 そうすれば誰でも例外無く、そこそこ成果は生む。

 生きる力を持ってるってこと。誰も。

 ほんとに力が出るのは、操り人形じゃねえ自分をつかんだ時だ。

 管理・統治の側も、被統治者に火が点くのを期待する。または強いる。

 彼らが望むあがりをおさめてくれるので。

 お仕着せでも、人はそこそこ「成果」は生む。

 科挙の系譜のこの国の受験制度は、典型的にこの枠内の事項。

 餌で釣って努力を強いる。都合いい知識を刷り込む。それより何よりこの種の「努力」自体、統治に好都合の刷り込みになる。良い子作りの。

 普通高は今でも「国家の中堅(役人)」養成を旨としている。理念、仕組みが。教員共の精神構造が。

 職業高は今でも使用人養成を旨としている。各産業の。

 両者の位置は、戦前の方が対等―というより相互に自立していたような気がする。

 以前ある農業高へ行った時、校長が自校生をあからさまに馬鹿にするのに出くわした。会話の中で。

 この手の馬鹿に仕込まれる子供たちは不幸だ。

 商業高でも、校長の同種の言に出くわしたことがある。こっちは、市立を県立が馬鹿にする話。

 普通高の教員は頭でっかち、酷薄な奴がさらに多い気がする。

 職業高に親身なのがいるのは、具体的な物作り、生き物作りという共同作業があるからだろう。生徒との。


 教員社会というのは、序列に敏感な奴が出世する世界というのが俺の印象。こんな奴らがニンゲン様を仕込んでいるのだ。

 この種の構造の中にいると、いったん烙印を押されると這い上がるのは難しい。這い上がっても、社会的地位を得るのはさらに難しい。

 理由は先ず、当人自身が呪縛から逃れるのが困難ということ。「馬鹿」の烙印を押された場合も、「利口」の烙印を押された場合も。

 烙印を振りほどいても、頑迷固陋な科挙(学校制度)の仕組みを外れた者に、社会は居場所を用意しない。

 こんな社会と教育制度はぶち壊して、作り変えないと駄目だと毎度思う。分野と人の実存、並立のものに。

 制度が制度である限り、管理や統治の側の御都合主義を100%拭うのは無理だが、限度を越えてひど過ぎる。今は。


 人と関わって面白いのは、実存の片りんを相手に感じた時。こいつはどの分野にもいる。普通高の系譜で出くわした記憶は無い。娑婆を含めて。自分の馬鹿さに、持ち上げられる側が気付くのは至難ということだろう。

 人間、やる奴はやると俺は思っている。どの状況下でも。だから変革の芽は生まれる。

 やる奴はやるから制度はそのままというのが、統治や管理の毎度の方便。奴隷社会も、そのままでいいということになる。

 変えるべきものは変えねえと、絶対に駄目なのだ。



 人は並立、人は自立の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。