最低限、英語でも

 インターネットの文書は、やはり母国語と英語(可能ならば他の言語も)で書くのがいいのだろう。

 俺には、そこまでの力も手間も無い。

 そうした物理的限界が、俺の意識に閉鎖性や閉塞感のたぐいをもたらしているのだろうとこの頃思う。

 文自体が意識無意識に、日本や日本人というくくりを想定してしまうからだ。

 この種の意識無意識は、人も俺も限界が生む檻の中に閉じ込めてしまう要素をはらんでいる。

 そういう要素はすでにあるのだろうと、俺は思っている。

 「ひとつところ(特殊)を掘り下げていけば、世界(普遍)に通じる道が開ける」。

 三十数年前、たまたま出会った田舎住まいのあるもの書きは、俺にこう言った。

 その通りと、当時も今も俺は思う。

 人は誰も、普遍という抽象になど生きてはいない。そんな高みでものを言う奴はとんだ偽善者、フィクションのやからだ。

 かつて出くわした科挙学歴の知者・インテリ、選民的ユダヤ・クリスチャンのたぐいを俺が嫌悪する理由はここにある。

 具体的な、生身の、辺境・地域の歴史の泥や手垢を直観を働かせ、自分の体と手でかき分けてようやくたどり着くのが、自分のものであり人のものでもあり得る普遍、観念に根ざすのではない共鳴に根ざす普遍だと、俺は思っている。

 働くということ。虚構では無い地べたで。真っ当に。

 それでも俺は思う。最低限、英語で表すぐらいは必要だ。

 その修練の時間は俺には無い。無いが、今言ったことは忘れないようにするつもりだ。

 いずれは拙くてもやってみたい。



 共鳴共感、人は並立・人それぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。


(付記)

 インテリ達は、上記の文言をプロパガンダと言って嫌う。彼らは、解釈の海に永遠に浸っていたいだけなのだ。この国の虚構の仕組みと馴れ合ったまま。みずから生き、みずからつかんで腹を決め、こうだと自分で言い出すことなく。それがこの国の飼い馴らされた知の構造だと、俺は思っている。