統治のケツを追う人と社会の心理構造
この国では世の中がめちゃくちゃになると、めちゃくちゃにした第一義の責任者=統治の側にむしろ有利な力が働く。
社会の求心力が、統治の側に集まるということ。
より強固な統治(支配)を求めるところにファシズムが形成されるのは、分かり易い話だ。
主体(自分自身)の意識が希薄なところに、この状況は形成され易い。
前も書いたが、この国が運転者を無くした車のように、人の心理と社会のメカニズムだけで愚劣な戦争に向かって行った時も、人間達の心は雇われ事務員、経理マンになっていた。「一億火の玉」等々の勇壮なスローガンとは裏腹に。
一日のお勤めが無事済めばそれでいい。この種の心理が人も社会も腐らせるのは、太宰治も小説に描いている。雇われ武士社会由来の酷薄な勤め人、東京人の姿を。(『ヴィヨンの妻』だったか、その頃の作品だ)。
民主も自由も、左翼共産・社会主義さえも、東京が意識・思想を先取りしている。この種の腐った幻想(封建武士社会・帝国明治由来の中央集権、縦社会の意識構造)が人と社会をどれほど駄目にしてきたかは、俺自身散々見てきた。味わってきた。
俺の田舎では今頃になって東京に習い、中高一貫校の設置が進む。成績(受験学力)向上が本音。知も含めた中央集権、縦社会のおこぼれに預かりたいのが本音。
生命力と感性が身に付けば、そんな枝葉の力はいつでも備わるなどと正論・真理を唱えたところで、人は聞く耳を持たない。目先の利益ばかり追う社会と社会の構造がそうなっているからだ。
その種の枠の中でしかものを考えない者達、魂の課題も打算を軸にしか扱わない者達は、容易に統治のけつを追う。しばかれればしばかれるほど。
これがこの国、この社会の平均的実態だと俺は思っている。
それはそれ。
共鳴共感、義理人情、人は並立、人それぞれ、人は誰でも創造主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。