さらば良き時代

http://youtu.be/ouiMepxtG3I

 何度か取り上げた歌。以前も書いたがこの歌の良さは、山崎ハコは去り行く時代の側にはいないという点だ。

 去り行くのは人の勝手、時代の勝手だ。だが自分まで一緒に向こう側に行く理由は、どこにも無い。

 1970年から80年頃。こういう自分を持つ者は、その頃は皆無に等しかった。

 俺にしたところで、鉄の意志とは縁遠かった。揺れ動き、あちら側ではないこちら側に転げ落ち、そのまま身動き取れず、もがいて来ただけという感じだ。偶然転げ落ちた訳では無いにしても。

 先日俺と同年代の福島県のある村の人物が、「私の若い頃は都会からへたに戻ると、何か変なことをしでかして帰ってきたんじゃないかという目で見られた」と書いていたが、その通りの目に俺は遭った。身内さえも言った。あいつは馬鹿だ、無能だと。

 俺は世渡りは無能だったが、生きることについては無能では無かったと思っている。無手勝流、パンツ一丁で六十余歳までこうして生き延びて来た。仕事の乏しい田舎町で、人を頼らず働きながら。嫁さんに、人情の行為に救われたことは何度かあったが。

 人間は、全部では無いかも知れないが信じるに足る。そういう者は、その種の感性は確実に存在する。

 こういうものがあるから俺は今日まで生き延び、こうして駄文を書き続けている。気力をなくすこと無く。

 こちら側の世界というのは確実にある。多分誰にも。孤独だが豊穣な世界。自分自身にとって。

 それが独りよがりでは決して無いと感じたのは、この種の世界を持つ者に、片鱗だけでも持つ者に出くわした時だった。人生の随所で。

 毎度俺は呼びかけもしないし語りかけもしないし、酒を飲んで意気投合のたぐいも無かった。多くは、ほこりに塗れた昔の手記や文書の中の人物だったので。生身の者ならば、語りかければ壊れるのは分かっていたので。

 話を、語りを聴くだけで十分だった。いや実は私も…。こんなことは言わなくても分かるし、分かるべしだし、分からないならお互いほっておくのが花。その程度の知恵はあった。自分のために。

 いわゆる保守と見える者の方が、こういう世界を持っている。そのことは実感した。地べたを這う人生の中で。

 俺は保守にはならなかった。彼らにしたところでそうだろう。内心に問うてみれば。作り出すもの、熱いもの、心の内の。彼らは例外無くそれを持ち合わせていた。俺のような意識関心興味を、たまたま彼らは持つ方向に無かっただけだと思っている。

 黙って俺はやるだけ。油臭い工場に一日篭り続けた、今は亡き町工場の親父のように。糞まみれの堆肥を子供のように眼を輝かせ、野菜にいいだよと作る百姓爺さんのように。

 俺の作るものが本物なら、せめてそれに近いなら、この種の親父は、爺さんは言うだろう。「おう、そうだ! おらもそう思ってた」。

 出来た時のこの一言で十分なのだ。途中経過を言う理由はまるで無い。この種の人々に。

 それまでは、黙ってこちらの世界に居ればいいのだ。知れることなく朽ち果てる―。そんなことは気にも留めないこの種の者達のように。



 共鳴共感、義理人情、人は並立・人それぞれ、人は誰でも造物主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。