一人ひとりの人生と共和制

 人は、制度の奴隷として生まれて来るわけでは無い。

 笑いには笑いで応える赤子として生まれ、人を愛する若者として生き、子を慈しみ育てる親として人生を送る。

 生物の、人類の歴史始まって以来の円環を一人ひとりが繰り返し、歴史は紡がれて行く。

 これが人と社会と国の根底だ。これを決して忘れぬことだ。

 そうして生きる力、生き抜く力は、地球上の永い生命の歴史が与えている。一人ひとりの体の内に。

 その発揮。その発露。

 この手助けのみが必要なのだ。人には親には社会には。

 人を育む。それは制度に鋳型に、統治者の損得打算のアマルガムの支配の仕組みに人を押し込めることでは無い。

 それぞれが持つ個性の発現、力の発揮。その触媒としての手助けのみが必要なのだ。大人自身、親自身が真っ当に生きることによって。

 人が忠誠を誓うべきは、一人ひとりの体に、魂に組み込まれた生命の記憶なのだ。生き抜いて次代を育てた、無数の生命の遺産としての。

 それを感じるには、くだらぬものを仰ぎ見る必要は一切無い。わが胸に手を当てれば、自分自身を感じればそれでいいのだ。触媒としての人は要るにしても。

 人々が信じたお天道様の本質、ルソーが言った自然人の本質、マルクスが言った類的存在の本質はこれだと俺は思っている。人は並立、人は誰でも造物主の共和制の本質もこれだと思っている。

 これは目新しい思想でも何でも無いだろう。観念概念で仕分ければ。

 神という虚構と闘ったヨーロッパが、二百年三百年前にやったことの亜流、一亜種という解釈も成り立つだろう。

 だが人に大事なことは、解釈でも分類でも教養にあぐらをかいた評論でも無い。

 本質を五感で感じ、個別具体的な自分自身の人生の中でつかみ取ることなのだ。

 類的存在としての人の実存。個体発生は系統発生を繰り返すものとしての一人ひとりの人生。それを生きるということ。

 これが何より大事なのだ。共和制の根底に。




 共鳴共感、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。