自由の意味
スーパーなどが外国産米に手を出しているとか。
市場経済の必然だ。
歯止めが、規制が必要? 規制の上に更なる規制が? 弱者の産業保護のために?
社会経済的に非組織の弱者として、国が建前で言う保護されるべき貧民として、嫁さんや子供と共に時には生活保護以下の暮らしをして来た俺は、自由というものを悪いと思ったことはただの一度も無い。
自由が悪に見えるとすれば、それが建前に過ぎない場合だ。
この国では建前が跋扈(ばっこ)して、人の本音本質を放逐する。
建前は常に言う。弱者のため、みんなのため、絆のためと。
その名において本質を覆い隠す。正統性を吹聴する。縦系列の組織社会の住民に過ぎないマスゴミ、文化人、芸人、御用学者らを使って。
この頃では放射性物質の隠蔽。その影響の隠蔽。解決のための議論の回避…。
その結果が国産米への不信と外国産米への傾斜だ。
ツケは当然この形で出る。階級制や既得権保護の綺麗事・建前に対する、本音の復讐として。
市場は雄弁だ。どんな言葉や抗議行動よりも。
市場において必要なのは、情報の囲い込みや閉鎖的制度が隠れ蓑の裏取引、ダブルスタンダード等々、自由経済の約束事違反の除去だ。
俺の田舎では、真っ当な農民は怖れてはいない。自由を。規模のいかんに関わらず。
彼らが怖れ、忌み嫌うのは、自由がダブルスタンダードや建前に過ぎない場合だ。
農民に限りはしない。真っ当な汗、真っ当な知恵、真っ当な人の関わりを望むものが自由を、解放開放を怖れたためしは、古来ただの一度も無い。
共鳴共感、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。