上部構造的思考の否定と国民国家の樹立

 経験も含めた防衛関係者の印象。

 頭でっかちということ。

 頭でいろいろ考えて立ち回る。策略を巡らす。個人的にも政略上も。

 官僚機構もそうだが、軍は、国家機構という人間社会の上に載っかる上部構造の天辺的位置にある。

 国民の暮らしが第一というセンスからは、一番遠い場所ということ。

 その種の場所では、へんてこりんな情熱が煮えたぎり易い。空疎な自己を鼓舞するために。

 空疎な自己? 人と社会の実体から遊離した所に生きる者にありがちな心的現象。生きる意欲の根源を、ヘンな所に求め易い。

 以前、総務省だかどこかに入りたてのインテリ役人が、この国に天皇制は必要だと言うのを身内が聞いて俺に話した。何かの会話の折に、わざわざ口にしたらしい。

 人の実体、社会の実体、自分の実体を実感し難い所に住む者が、自分の空虚を埋め合わせるために何に依拠しようと勝手だが、それが政治・社会機構や政策等々に反映するとなれば、話は別だ。

 明治以来、封建遺制の儒学朱子学的観念との癒着によって、統治のための神にはなり得ても良心(民衆一人ひとり)のための神にはなり得なかった天皇(制)を、無反省に戴こうという心性が何に通じ、何を産み出すかは言うまでもない。

 国民無視。原発で露わになったこの国のエリート層の民衆に対する無為無策は、こうした心性に基盤を置いている。だからエリート、なのでエリート。国民と共にでは無い、民衆からの脱出。民衆の上にそびえる国家機構への上昇。これは国家機構だけでは無い、「いい会社」に入る民間人にも共通の心的現象だ。東電という企業を、その体質を見るがいい。

 近代国家、国民国家の成立のために、宗教改革がなぜ必要だったのか。政教分離がなぜ必要だったのか。

 これを真に学ぶことも感じることも無いまま、生かじりの青臭い野望や上昇志向・見栄体裁をそのまま抱えて組織に入る。そして空虚な自己を鼓舞するため、体のいい理由付けのため、支配者お手盛りの統治の神(虚構)にすり寄る。

 北朝鮮のロケット騒動などを見ると、わが世の春をうたいだした防衛種族の策動、立ち回りの臭いがプンプンとする。お追従のマスゴミ報道から。

 彼らは自分たちの組織拡大と利権のために策動を重ねる。国防という虚構を振りかざしつつ。

 国防は虚構? 国なるものの実体に民衆の影がかけらも無いことは、司馬遼太郎さえ指摘している。逃げまどい道を塞ぐ民衆を「ひき殺せ」と言った戦車隊長。「軍隊とは一体なんだったのか」は、司馬自身の回想だ。

 国民国家の樹立。政教分離体制の真の樹立。

 この国は、仕組みから変えなければ立ち行かない―。そう言うならば、統治の上辺を組み替えるのではない、根底的な魂の問題から構想しなければ何も進まない。そうでなければ進むのは、相も変わらず目先の損得打算とつるむ支配者の組み替えだけだ。




 余談だが、天皇(制)と国民国家は、国民民衆共和の社会は両立するのか?

 理論上は不可能では無いと思っている。憎悪の革命をめざすのでなければ。

 困難と思うのは、統治の擬制としての天皇(制)を真に脱ぎ捨てられるかという点。平たく言えば過去を清算し、一人ひとりの良心と調和した存在になり得るのかという点だ。

 もう一つ困難と思うのは、人と人の国際的な連帯を取り込めるかという点だ。

 はっきりしているのは、天皇(制)が統治の神の虚構を脱ぎ捨てた時点で、支配者にとっての利用価値は無くなるということ。千数百年御家が続いた一番の根拠が。

 この自殺にも等しい自己否定の敢行に踏み切った時に、死中に活、国民国家との調和の芽も生まれると俺は思っている。

 何年か前、皇太子が空虚な取り巻きに逆らって「うちの雅子が…」と言い出した時が、この種の可能性の萌芽だった。統治の側はもちろん、国民のほとんどは無視したが。

 あれは敗戦後の天皇のお仕着せの人間宣言など足元にも及ばない、皇族自発の人間宣言だった。

 御言葉なんか待っちゃいけねえが、こういう声が出るのは大事だ。あちら側から。

 王と国民民衆の契約。この種の芽も生まれるからだ。